● 3 推定17才

●3 2010年の赤の手帳 推定17才

・アインシュタインの言葉「生きるには二つの方法しかない。何事も奇跡ではないかのように生きるか、あらゆることが奇跡であるかのように生きるかだ」

・自分の今後の進路について迷っている。まず高校の卒業後の進路では、フリーター(アルバイト)で留学(①インド②中国→インド③中国→インド→アメリカ)の費用をためるか、専門学校に行って(IT関係の)アルバイトしながら費用もためて技術も身につけて自立心も育てることができる道に進むか――後者のほうが自立心も育てれるし、技術も身に付けられるから前者よりも安心はある
【当時の私はハッカーを目指していた。<21才・春>】

・フォーノ・グラントリノ(高級車)

・退屈と単純作業は悪。刺激的でおもしろい作業は善。反権威主義を愛せ

・テレフォン・セックス(電話越しのいちゃいちゃ)

・無意味なことなんてない。なぜなら全てのことから学ぼうとするのが僕の姿勢だから

・ダメなのは、ダメなことをやっていたことではなくダメなことに気づかない状態の方だ

・僕は先入観を嫌うくせに、無意識のうちに自ら先入観を作りだしている。またそれに気づいても仕組みの分からないままに改善もできない自分は何ておろかなんだ。僕はどうしようもないばかだ

・復讐心って何だ。人間は復讐心を抱くことで互いに傷つけ合っていく。でも復讐心のおかげで人は強くなる。そしてその強さで人を助けたり殺したりする。でもどっちを選択しても悲しみは存在するのだ。復讐心の連鎖を断ち切るには「許す」心が必要だ。「許す」というものも何かよく分からないけど――。ちなみに僕がこれを考え出した原因は映画「スパイダーマン3」だ

・人は道を選択できる。どの道を選択するかで人は決まる。そこには善悪は存在しない

・「何かを学ぶためには、自分で体験する以上にいい方法はない」<アルベルト・アインシュタイン>
体験とは、学ぶために考えるきっかけになったものや原因のことをいう

★17才★・アインシュタインより、「蝶はモグラではない。でもそのことを残念がる蝶はいないだろう」

・マルクス・アウレリウスより、「怒りの原因より、怒りの結果のほうが、はるかに重い」

・岡本太郎より、「危険だ、という道は必ず、自分の行きたい道なのだ」
危険を感じることは、興味を持っているということ

・こうあるべき姿など今(現在)は人生に一つもない。坂口安吾(作家)より、「人生はつくるものだ。必然の姿などというものはない」
それがKに編集されているとしてもだ

・僕がこのように考え、このように動き、このようになったのは誰のおかげだと思う。君たちだ。(僕以外の人間)

・僕にとっての悲劇は、その解決法が手の届く所にあるのに、気づかないために、まだつかみとれないことだ。でもこの悲劇は僕にとっての希望だ。全てを知り尽くしているものほどつまらないものはない。偉大なのは物事を知って努力した結果ではなく、物事を知ろうとする過程なのだから

・僕の存在を他人が認知した時点が僕の全てでそれが限界なんだ。僕にとっては恥ずべきことだ。

・君が目標に向かって行動するとき、他人に認められるようにと心がけているのなら、君はいつか自らの限界を知ることになると思う。なぜなら他人が認める範囲に収まろうと無意識のうちに願っている、それこそがもはや限界だからだ。有限を願っているのなら結果も有限だ。無限を願っているのなら結果も無限の可能性がある。そういうことだ。だから僕は他人に認められないように努力している

・僕にとっての「学ぶ」とは、学ぼうとする相手の全てをうのみにするんじゃなくて、参考にする、ということだ。うのみにすれば自分の意見や直感を殺してしまう。学ぶ事柄に自分の直感をぶつけ、どう評価し、解釈するかが大切だ。「学ぶ」ことで大切なのは言葉などというよりも学ぶ事柄に対する自らの取り組み方やその過程だ。世間で言われる名言が、自分にとっては理解できなかったり愚かだと思ったりすることもある。他人にこれが理解できないから君はバカだと決めつけられることはない。それは答えではない。答えは自分の中にある。そしてその答えは自分でしか見つけられないかどうかは分からないけど、自分で見つけるべきものだと思う

・羽生善治(将棋棋士)より、「相手のことを知るよりも、自分自身が強くなればそれで済む世界だ。だから敵の弱みを突くより、まず昨日の自分に勝つ」

・アインシュタインより、「他人の行為については、充分な情報を手に入れてから意見を述べるよう努めるべきだ」

・人間の作ったもので壊せないものはない

・フィリッポ・ブルネレスキ(建築家)より、「知者を装おうとするから、いつまでも無知から抜け出せない」

・小林秀雄(批評家)より、「絶望するにも才能がいる」

・エージェント・スミスより、「本当に見事だと思わないか。この完成美と独創性には、舌を巻くよ」

・Aを押し出すとBも一緒に出て行く。それは表面的には一つの塊だけど、AとBはまったく別物で切り取り線で分けられる。ただ困難なのは、別物なのか気づかないことと切り離すのが難しいことの二点だ。でも僕はその二点をも克服できる能力を持っている

・フロイト(精神科医)より、「力は、あなたの弱さの中から生まれるのです」

・必要であるものの選択には必要なものの存在が必要不可欠だ。まるで成功するためには失敗という経験が必要なように――でも、それさえも

・まずは「0」に戻ることからだ。僕たちは、認めざるをえないようだが、「一[マイナス]」の域にいる。それがどの程度か、「0」に近い「一」かとてつもない「一」かは分からない。その時点で絶望かもしれないけど希望はある。なぜなら、「0」に向かうには、100年の努力のような時間のかかるやり方じゃなくて突然ひらめく直感という素ばらしい解決法が効果的であるからだ。脳のポテンシャルを思えば、真実と言える。今の人間は間違った先入観の元に考えている。天才を尊崇し、少数意見は重要視されない。無論、前提が間違ってれば導き出される結論も正しいとは言えない。常識の延長上、型にはまった文句、確立による可能性の迫害――たとえば“死んだら悲しみましょう”とかね。話は変わるがつまり「0」に戻ることは一瞬だということだ。一般に天才と呼ばれる人間は大体「0」付近だろう

・カール・ルイス(陸上選手)より、「誰かがやるはずだった。自分がその誰かになりたかった」

★・カルロス・ゴーン(ルノー会長)より、「正確な質問をすれば、正確な答えが返ってくる。あいまいな質問には、あいまいな答えしか返ってこない」

・常に物事を疑ってかかる。現状に満足してはいけない。物事を断定しない。すぐにどっちにも転がることができるように、また客観的(先入観のない)な見方ができるように――

・双葉山定次(力士)より、「いまだ木鶏たり得ず」

・(図あり)1、左は5個でこんなにも高いがもろい。内容が無い。目立つ。見た目がいい。右はその逆 2010.4.19(←の解説日は2010.11.10)

・ムンク(画家)より、「わたしは病気を遠ざけたくない。わたしの芸術が病気に負うところは、実に大きいのだ」
波の静かで穏やかな海を船で渡って島に着くより、波の荒く転覆しそうなほど荒しい海を渡って島にたどり着くのとは、まるで達成感が違う。不安や病気などという波は大きければ大きいほど、多ければ多いほど、危険は大きい。そして危険が大きければ、教訓が身に付く、達成感が大きくなる、困難を克服する能力が身に付く、危険に慣れるなどの(うれしいかどうか分からない)特典が付いてくる。まあ教訓が身に付くのはそれほど内容が濃くなる――穏やかな海の中で島を100往復するよりも荒い海を1往復する方が価値があるのは確かだと思う。ただ穏やかな海を渡るにも、そこでしか得られないものもあると思うけど

・人生には例外が多い。万能というのがあるとすれば、それは例外も含め、全ての事態に対応できるということだ。じゃあ、数学は万能ではないな。多分だけど今は万能と呼べるものはないと思う

★・ユング(心理学者)より、「ある人に合う靴も、別の人には窮屈である。あらゆるケースに適用する人生の秘訣などない」
人生のあり様や価値観は、人それぞれだ。客観性を装った周囲のアドバイスもまた、その人の偏見に過ぎないことを、忘れてはならない。究極の客観性――客観の本質は主観である

★・カエサル(軍人)より、「人間はみな自分の見たいものしか見ようとしない」そうありたくない。でももし無意識にそうだとしたら――

・坂本龍馬より、「世の人は我を何にも言わば言え、我が成す事は我のみぞ知る」

・どうやら最近の僕は懐疑主義みたいだ。今は「疑う」というのがとても万能なものに思える。でも理想とは言えない。この主義なら物事の本質にたどり着くのは不可能だ。2010.4.27

・藤子・F・不二雄の作品「ミノタウロスの血」。主人公が不時着した惑星では知的な牛が人間を家畜として飼っていた

・僕は「余裕」という感情をなくしたいと思う。でも必要なことがあるんだろうな

・攻撃をしてる時は守備はできない。守備をしてる時は攻撃はできない

・これは良いとか、悪いとか、思ってる間は思考することができない。だって僕は2つの事を同時に考えることなんかできない単純な生き物だから。理想は、「ずっと思考したい」と思っている

★・選択肢が少なくてその全てが悪手になるようだったら――どの局面にも最善手はある。だが悪手でもその局面の最善手である場合もあるのだ、それが起こるのは君が前の局面で悪手を打ったからだと思う。そう考えていいのかはわからないが
【オセロが思考因子。<21才・春>】

・人生で起こるあらゆる事象において、何よりもまず始めに僕にとって利益となるのは、そのことによって学ぶことができるということだ。何かのきっかけがないと思考できないのが僕だからね。これが先入観の真相かも

・君が進んだのと違う別の全ての手の進行を思考できるのはすごいことだ。もしそれができたなら、君の思考因子は限りない。やろうと思い、続ければいつかできるはずだ

・「学ぶ」にはタイプがあるように思う。対象に対して信仰心をもってからの思考となるか、逆の背徳心をもってからの思考となるか――または無心からもある。これについては分からないが、他のどれよりも最善であると思う。つまり僕がどんな教訓を覚えていたとしても、度々現われる「学ぶべき対象」(ほとんどはそうだ)に対しては、その教訓を元にして思考するのではなく、先入観(一般用語)をなくして無心の状態で思考することが「善」で「理想」であるということだ

・学ぶものの対象=思考因子について――思考因子の思考因子=思考因子のどこから学ぶか、について二つに大別すると思う。一つは「直接型」で、文字通り例えば文字なら表面的に書かれているのについての思考となる。また思考も思考因子に準ずるものとなる。つまりこの「直接型」の場合の思考因子は対象の表面(対象について)である。もう一つは「間接型」である。対象からは異なることを思考する。最終的には対象と思考のジャンルが異なるが、思考因子は間違いなくその対象なのだ。それに連想であるから関連性がないとはいえない。例は難しいと思ったのでやめとくよ。どっちが悪いということはない。どっちも思考に変わりはない。ちなみに今の僕は懐疑主義傾向があるから、直接型では対象の教訓にうなずくことはあまりない。もっと根本的な問題を考えてしまう。まあ、その域ならもはや間接型かもね。でも、いつでも大事なのは思考因子じゃなくて思考だよね? 何を思うか、思ったか――それが大切だと思うよ

・笑えば沈み、沈めば沈む――世界の広さを思うと今の僕の考えがどれほど低尚なのかと思わずにはいられない。でもいずれ物事を決めつけるときが来るのかなあ。それもF Mが今の僕には想像できない何か画期的なことを思いついているのだろうか

・人に偉大だと評価されるのは、偉大なことを人にうまく伝えることができる能力があることが前提だ。だから人に知らされてない偉大な人はたくさんいるはずだ。目に見える人だけが全てだとは限らない

・世界とは自分が作り出したものなのかもしれない。自分の最終的な思想とこの世界が一致していたとしたら――でもだとしたら何故僕はこの世界で生きているのだろう

・僕の中にあたりまえのことなどない。ユング(心理学者)の言葉を思い出せばいい。「ある人に合う靴も、別の人には窮屈である。あらゆるケースに適用する人生の秘訣などない」また、最初から命題のある文が提示されたとき、そこから無心になり間接型思考をするのは難しいことである。むしろ問題提起された方が考えやすい。でも、どんなものでも、どんなに難しくてもそこから学ぶことはできる。難しいからといってあきらめたりはしない。それに難しい問題を解き続ける方が勉強になる

・僕が何かをするとき、思考するとき、いつも弊害が付きまとう。他人からの命題、固定概念、自分から作り出したあいまいな固定概念もそうだ。何となく直感で思ったことがある日にもシンクロして――それが何度もおきる内にその直感が強固な固定概念となる場合もそうである。弊害があれば当然、僕の理想である無心思考も難しくなるし、思考能力自体も悪くなるかもしれない。無心思考に近づくためには懐疑主義は有効なものかもしれない

・僕はなるべく多くの道を歩いたほうが成長できると思う。成功だけしてれば失敗したときに対処法が分からなくなって困る。楽して成長できるならいいが、それより成功も失敗もしてたくさんの道を通っていっぱい学びながら成長していきたいと思う。最初から答えが提示されてて「これが最善手だ」と教えられるより、自らの力で最善手を導き出して、その原理を解明したいのだ。失敗したからって悲しむことはない。失敗も成功もそこから学べることは無限大だ。学ぶ気持ちがあればね

・良いことずくめのときは大抵、通った道も少なくして、あるいは最短距離である。つまり、学ぶことが少ない状況であるのだ。だから僕はそんな時こそ思考することをなおざりしてはいけないと思う。楽な状況(成功や良いこと)を求めるのは悪いとは思わないけど、それは欲望でしょ? でもそんなこといったら僕がしていることだって楽しいからしてる欲望になる。欲望を満たすことは完全悪ではないみたいだ。どうやら欲望はいろんな種類があるらしいね

・映画「デジャヴ」について。こういうこともあるのかもしれないと不思議な気持ちだ。近い未来、人類はこういうことが簡単に出来るようになるかもしれない。まさに科学の可能性は無限大だ。あらゆる問題を解決していくだろう

・よくうそをつく人は真実を言っても、信じてもらえない

・ロロ・メイ(思考心理学者)より、「愛は、相手の存在に対する喜びで、自分の価値や成長を確信すると同じく、相手の価値や成長を確信することだ。だから、愛にはいつも2つの要因がある。相手の価値と善意、そして相手とのつながりに対する自分の喜びと幸せである」

・今、人はみな、世俗にまみれ、物事を考えるときは打算をかかさない。地位、名誉、お金、勝ち負けなどの為に人は必死で働いている。全ての人がそんな生き方をしている中で、もし、打算を忘れて生きていけるなら、何かが見えてくるのかなあ

・つま先立ちで背伸びしても、ずっと立てるわけではない。大切なのは後悔のないように生きることだ。無理して地位や名誉やお金を手に入れても、苦しいだけだ。あきらめているわけではない。僕にとって地位や名誉は無価値であり、生きるうえで障害となるのだ。だからもし無償でしかも簡単に手に入れるチケットがあったとしても、僕は受け取ろうとしないだろう

・いばる必要なんかない。無理は自分に返ってくる。強い力を持つ者は、その力を人に見せつけるのではなく、静かに思っていればいい。また時には引くことも大事である。攻めることだけが最善手ではない。相手にイニシアチブを持たせれば、事を円満に運ぶことができることもある

・今はほとんどありきたりな道ばかりだ。冒険しても全然たどりつけない。でも今まで歩いたことのない道を歩いたとき、何かを感じる。ああ、これが新しい道なんだと僕は思う。それは、誤解でもあるが、直感で最善手だと思ってしまうほど、新鮮で、衝撃的なのだ。そして僕は新しい手を知る。忘れないようにメモをとり、そして新しい道を探しに行く。本当の最善手を見つけに。FMよ、もっと感性を想像力を豊かに生きよう

・勢いが強ければ強いほど落ちていくのもまた早い。勝つや負けるが悪いと言っているのでも頑張るなと言っているわけでもない。頑張れば頑張るほど自分もまたすり減っていくものだ。いつまでも強くなり続けようとした結果が、いまの苦しさを生んでいることはよくある。つまり、勝ち続けると言うことがそれだけ自然に反したことであると言いたいのである

・本当に強いのは自分自身を乗り越えられる人。強さを他人に見せつけない人。そして、勝利に酔わず、敗北に振り回されない人だ。外見は柔弱に、自分のみが自分の強さを知っていればそれでいいのだ。その概念自体が不確定だが、もし真の意味での神がいるとすれば、僕は何をしなくてもただ思っているだけで、全てを察してくれているはずだ

・勝つということは何もほめられることではない。勝つ人がいるということは、負ける人がいるということだ

・手に入れにくいものが、人の行動を迷わせる。手に入れたい欲望だけでなく全ての欲望は僕の眼を曇らせる

・空っぽだから意味がある。水やジュースを飲むことができるのは、コップが空っぽだからだ。何もないことはゼロではない。可能性の固まりなのだ。しかし人は、何もないことは心細い、手に入れることで幸せをつかむことができる、他人が持ってるからうらやましい、と、思い込み、手に入れることが可変本能と化している。多くを手に入れれば、満足感に増して欲望と悩みが自身をさらに苦しめることになるというのに。でも僕は思う。空っぽのコップは何かを入れるためにあるのに、何かを入れると、不幸になる。それは空っぽのコップが悪いわけでもなく、かといって入れることも入れる物も悪いわけではない。だってできる人は、何が入っても成分(+要素や-要素)を見分け、自らの堕落を防ぐことができるうえに、+要素だけを取り込んでさらに自分を成長させていくことができるから。不幸になる原因は成分を見極められない人間であり、その人間の間違った認識とは、「求める」ことじゃないのか。できる人はいいが、できない人は「求める」から、不幸になる。それで――故に求めるなと思うかもしれないが、僕は違う。求めることを忘れたら、できる人にはなれない。できる人は最初からできる人だったわけではない。求め、不幸を味わったから、不幸にならない術、つまり幸せになることができたのである。これが「学習」である。これは、デメリット(欠点)が少なく、メリットのほうが上回るという人間の持つ素晴らしい能力なのだ

・得ることと、失うこと。どちらが人を苦しめるのか――

・許す心が争いを減らす。争いが悪かどうかは別の問題

・結果的に一番であるためには、今一番であり続けることはない。むしろその逆である。なぜなら、一番であり続けるにはエネルギーがいることなのだ。大抵は一番になることが目標であったりするから、目標を見失いやすい。また、そうでなくても、感じるのは後からのプレッシャーだけで、追いつき追いこせの時より精神的負担も大きい。よほど高い意識をもってないと、トップに居続けるのは難しいのだ。登る山が有限ならば、上り坂の後には下り坂しかない。その概念を打ち砕くとしたら、ヘリコプターで降りる、などがいい。つまり、最終的に一番を目標としてるならば、目先一番でなければいけないと思うことはない、ということである。ただし、相手が抜け目のない奴なら、勝つための最善手は一番であり続けることだ。(オセロを参考に)

・最善手ってなんだろう? 勝つための最善手、負けるための最善手、何かを定義づけるための最善手――目的によって最善手も違うということか?

・知ったかぶりは恥じであり、大きな欠点である

・金の切れ目が、縁の切れ目

・相手のレベルが低ければ自然と自らのレベルも低くなり、周りが高ければ成長も早いだろう。それが、適応というものだ。常に人に接しているから、無意識に自分のレベルが合わせられる。レベルが高ければ大いにありがたい本能だが、僕にとっては邪魔な代物だ。大丈夫――これは可変本能だ

・僕は人に理解されるのが嫌いだ。レベルが高い低いというのは客観で決められることであるから、故にそれを目指しているのではない。僕が目指しているのは、周りに認められることのない自分の考え、なのである。常識や先入観(原本では先入観α)をもって本質を語るなんてことは誰でもできるし、評価もたやすい。まず先にある物事を疑ってかかる。偏見を捨て、利用するものはする。一から全てを考えてみる。これが無心思考であり、自分らしい考え方に、より近づけることができるはずなのである。全て真相を内包し、かつ論理的・常識的(本質はそうとは思わない)で理にかなった、他人が全てを容認した上で尊敬される最高評価の考え方より――誰からも気づいてもらえない、全く尊敬対象とならない、常識から逸脱した最低評価の考え方でも、他人に理解されそうにない、個性的であり、神秘と可能に満ちた考え方のほうが好きなのだ。前述は極端だが。それこそが僕の目指しているものなのだ。たとえ、後者のほうが本質からずれていたとしてもだ。認められたら最後、認められなければそれはまだ神秘と可能性の境だ。無限と可能性を信じる者が、事の深層をぬり替えることができる

・知る者は言わず

・評価されればされるほど、自由が奪われる

・人の欲望とそれを満たしてくれる科学、常に先行しているのは欲望だ。だって、人間はどんなことにでもすぐに適応してしまうからね

・限界がこんなものじゃない。まだ1%の能力しか出してない。なぜ、100%の力が出せないのか。邪魔している。思考する際に無意識にそんな一要素を取り込んでしまっている。だから、こんなに思考が自由でないのだ。見えるだろ? 邪魔してるものが

★・まず、常識を捨てただけで、どれほど自由な思考ができるか――

・僕の人生で大切なのは成功することではなく、学ぶことだ。たくさんの経験をし、感じ、思考し、多くの情緒を育むことなのだ。だから道も、そのように歩むべきである

・リフレーミングとは、カウンセリングでいう意図的に枠組みを変える、あるいはズラすことで、膠着している性格や考えを解く手法である。ここでいう枠組みとは、人かものを考えるときに、あらかじめできあがっている思考のフレーム(枠組み)のことである。簡単に言うと、先入観(原本では先入観α)だ。これを成功させない限り、前には進めない

・ある人の人物評価には2つの決定要素がある。1つは評価する側の感じ方の違いである。評価される側が複数いたとして、評価される側が皆に同じ姿を見せていても、それぞれ感じ方は違うのだから当然評価も異なる。もう1つは評価される人がそれぞれに違う姿を見せている場合だ。人は相手によって自らの出し方が変わるものだ。ある人に対しては妙に素直になれたり、ある人に対してはいつも頑なになってしまったり――つまり、他人の人物評価はそれぞれ違うんだから、ある人がある人に対する人物評価なんてあまり(全くではない)あてにならない、ということだ

・人の心はぜい沢にできているものだ。一度味わった生活水準を下げることは難しい。あの時は今よりずっと良かったからと、今を嘆くこともあれば、あの時に比べれば今なんてどうってことないと思うこともある。これが心理学でいう対照(コントラスト)効果である。ちなみに後者の方が現状に対する精神状態がよくなるから、効果的だといえる

・僕は――新しいことに臆病だ。消極的だ。だから、なかなかおもいつかない

・こんなにたくさんの道があるのに、なぜ、一つの事しか考えられないのだ? 僕は感じる。こんなにたくさんの道があることを

・僕はミュンヒハウゼンか? なぜそんな狡猾なことを本能的に考えるんだ?

・何かを引き起こすために物事が存在しているのだとしたら――例えばケンカは仲良くなるために存在してるとする。しかし表向きまたは浅考したなら、結果は真相とは違うものである。ケンカは、仲を悪くする、悪いものだと。現象を見るとき、その現象が発生したことによって物事の何が変わったのか、またすぐに結果が出ない場合もあるから長い目で余波をとらえようと、そう考えてみるのがいいかもしれない。その現象は僕に何を伝えようとしてるのか、現象や物事の真意とは

★・僕らは皆、何かの依存症だ

・快楽を覚えるためじゃない。苦痛を忘れないためだ

・できないから忘れるんだ

・偉大な人がいるところでは、誰が他の賢者を重んじようか。空に太陽が昇れば、星は多くても見えなくなる。見えないだけで、確かにいる

・悪人は富んでも、行いは悪くなる。善人になることは絶対にない

・“時間にしばられない”とはどういうことだろう。時間がもつ僕にとっての欠点を克服又は逆に利用することだと今の僕は思う。欠点の一つとして“忘れる”がある。忘れて苦しまないことが克服だ。抜水優弥(学校を出よう)の言葉を覚えている? 「一度見たもの聞いたものつまり覚えたこと、の記憶は、ずっと忘れ去ることなく脳の倉庫にしまってある。どんな些末なことでも、完全に忘れることはできないのだ。だけど全てを手の届く倉庫にしまっておくのは苦行だから、脳にはストッパーがかけられているのだ」彼の言葉をかりて言えば、時間にしばられないためには脳のストッパーを自由に操作できればいいのだ

・愚者がいい行いをしてもそれはにせものでしかない。君が悪人だとふんだ人なら、全ての行いは悪行と確信していい

・純粋に幸せを求めても、苦みがもたらされる。賢者は苦みをもたらさない努力をするが、もたらされた苦しみより幸せを重視して、満足する。愚者は、実際には些末な苦しみが得た幸せよりも脳を寡占し、苦しみ、増して苦しむ。悪霊に取り付かれた者は、苦しみを逃れるために自殺する

・正直な者というのは大抵欲望のままにうごくのだから、無論自分をだめにし他人を傷つける。森のまっすぐな木は根元から伐られ、まっすぐな矢は人を殺す。正直者とは人それぞれだから詭弁かもしれないが、ただ、僕が言いたいのは正直だから善とは思うな、ということだ。逆に言えば、人が善を行うとき、それは偽りの塊である

・世界がつまらないのは君がつまらないから。君が気づけば世界は変わる

・僕は命題が嫌いだ。物事を決め付けるのが――でも、これだって、セットでついてくる先入観という欠点から逃げてるってことだ

★・ある物事や物が何らかの性質をもつとき、その要因は性質をもつ側にあるのではなく、与える側にあると思う。もちろん被体(造語)にも性質はあるのだが、それは全体のわずか1%ぐらいなのだ。被体のもつ性質が結果としての性質の根源であり、真実なのだと思う。加体(造語)のもつ99%の性質がいわゆる、「思い込み」である。例を1つ挙げよう。1つの問題提起からいろいろな想像ができる。石がある。それは黒かった。多分、黒いというのが石つまり被体の性質だろう。これを加体が見て「この石は黒い」と思ったとする。今の僕はこれはすでに加体の性質つまり、思い込みであると思う。いや、やっぱり違うか――石の性質とは、その石が本来もっているもの、例えば硬い、重い、冷たい、大きい石なら大きい、黒い石なら黒い――これらがそうである。ある加体が黒い石について「黒い石だ」と思ったり、また別の加体が「白い石だ」と思ったり、加体がどうとらえようと石の性質は変わらない。「ほかの石は白いのに、この石は黒い」と思ったら、それはもう思い込みになるのかもしれない。黒いから不吉だとか、すごいとか、石の性質から発展して被体の性質について以外、つまり、「黒い石だ」以外の思想が発生したとき、それらは全て加体の性質と成る。もちろんこの理論は意思のない(これも思い込み)物体と人の間だけでなく、人同士でも成り立つ。この世界は思い込みだらけだ。真実が何かも分からない。それだけ思い込みの力は真実より近く、真実より深い。思い込みは人を飲み込める。例えば、これが真実だと思い込んでいても、それが真実でないことが真実だとしたらそれは思い込みなのだが、人がその違いを知ってショックを受ける機会に恵まれることはそうないし、真実でないことを真実だと思い込んでいても人は清福も得られるのである。人は真実を求めようとするが、真実とは何か分からないから結局は思い込みで落ち着くことができる、単純だがある意味すごい生き物なのだ。思い込みは人間にとって95:5の比率で幸福を与えてくれ、真実の意義を充分満たすことのできた便利な概念だ。だから僕は思い込みに感謝したほうがいい? いや、僕はちょっと考えてみる。便利は人を堕落させる。何かを使う・何かに使われるというの実は紙一重だと気づく。何かを使うというのは、何かを使っていると同時に使ってる何かに使われているし、何かに使われるというのも全く同じ関係だ。つまり、二律背反の関係だ。人が思い込みを使うのは人が思い込みに使われているのと同じで、人は無意識に思い込みを使うか、もし思い込みに意図があったとしたら、それはこれ以上幸福を与え続けることではなく、より真実から人を遠ざけることだと思う。でも人は思い込みが与える幸福で充分だ、と、真実を欲さない。まさに利害の一致だ。人は思い込みに性質を与えない。だから思い込み実態に気づいたとき、その思想のほとんどは、1%に部立される。さっき書き忘れたが、被体から目をそらしたら、そこからの思想は全て加体の性質つまり思い込みになる。さっきの例を出すと、黒い石を見てるときに「黒い石だ」と思うのは被体の性質だが、黒い石から目を離した後に「黒い石だった」と思うのは、これは加体の性質である。目を離した間に黒い石が色を変えたりしたかもしれない。目を離したら、何でもありだ。可能性はある。――可能性の話はさけよう――思い込みに振り回されてはならない。特に厄介なのは概念だ。あれは思い込みの塊だ。でも、いい考えがある。思い込みに使われているものなら、逆に利用することができる。(二律背反)先述したように、思い込みは真実より奥が深い。これは思い込みだが、この思い込みを真実だと思い込んでみれば、その時点で思い込みの力で真実をぶち抜くことができるようになる。擬似真実を構想できたなら、それはもう真実に勝る。思い込みの企みも阻止できた。思い込みの力と人の特性を利用した手だ。ごめん、ここまで書いて自分が何だか分からなくなった。あんまり深く考えないでいいよ、FM
【追随思考:黒い石を見て「黒い石だ」と思う加体意識はすでに加体性質であると思う。こう考えると被体とは何か、それは存在するのか、という疑問にぶつかる。<20才・夏>】

・物事の決定は、自らの思い込みが寡占するのかもしれない

・歩いたことのある道を歩けば発見は少ない。今まで歩いたことのない道を歩けば、所見物に会えるかもしれない
【所見→初見。<21才・春>】

・万学に基づき、何をいうことがある。味方だ敵だろうと、誰が役立つかは分からない

・僕にとっての名言とは、思考が止まった、つまりその言葉に対して自分の中で命題が決まってるものではなく、理解できていない謎の言葉なのだ。理解できていないから理解しようとして常時その言葉について思考する。結果、僕に思考因子を与え続けてくれる、そんな言葉だ

・物に優劣はない。詳せば希少だ。(別意ではあると信じてる。物も衆生だと)人によって、どうとでもなる。賢者は胆をなめても克服するが、愚者は最上欲を満たしても堕落する

・なぜ僕は同じ考えの発見を求め、喜ぶんだろう。そこには、新発見は少ない。違う考えには、困難だが多くを学べる。同じものに喜びを感じるこの本能に、違和感を覚える

・ある人のためになることでも、他に人には害になる。すべての人が喜ぶ出来事などなかなかない
【ユングの言葉「ある人に合う靴も、別の人には窮屈である。あらゆるケースに適用する人生の秘訣などない」を参考にしたらしい。<21才・春>】

・直観と先入観(原本では先入観α)は深い関係にある。直観判断は推奨するが、先入観で物事を判断するのは背信行為だ

★・先が見えないのは不照射だからではない。何かがじゃま立てしてるでもない。僕自身の目のせいだ。僕のせいなんだから、僕が変われば、簡単に、先が見える

・慎みは欲によってだめになる

・望み多くして実り少なし。どちらのせいか――

・成功すると、それが合ってる、真実だと思い込む。どうしたら?

★・快楽は忘れやすいのに、苦痛はどうして忘れにくいんだろう。どうして快楽は求めようとするのに、苦痛は求めないんだろう

★・個性的見識を競い合うという(判読不能)喜劇的な外見だ


Myusノート 目次

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