解決

あるものを解決・解消・療法するものについて

解決と解消

a 「問題は解決するな」という「解決と解消」=「鳥を飼います」の話がある。鳥を飼おうとすると、発生した問題に対して○○対策をする。これが解決である。これに対して「鳥を飼わない」という選択をするのが「解消」である

b 克服する努力をするか、存在を無くす努力をするか

責任の公平分担

責任は公平に与えることによって平和的解決をもたらす。これを責任の公平分担という。ここでは取り上げる例として、二人および複数(三人以上)の子どもが一つのおやつを分けるときを例に挙げ、これがいかにして公平に事を運べられるかについて考察してみることにする
まず私が皆さんに問いかけたいのは、公平とはなにかということである。公平の基準を物質的な側面からみることは、今は数多い。確かにこれは理にかなった見方だと思う。同じおやつが二つあったとしたら、より大きくてボリューミーなほうを選ぼうとするのはちっとも不思議なことではない。しかしその気持ちは相手も同じで、この二人が同じ目的に対して同じ欲求をもっているなら、どちらかが譲歩しなければ事の解決はみえない。しかしここで一方が、解決のために自分の欲求を抑えて利他心を発動することは、実際的な解決にはなろうとも、これは公平ではない。なぜなら、公平さというのは、物質的な公平さよりも、心理的な公平さの要素のほうが大きく影響するからである。物質的な公平さには、その公平さに限界がある。なぜか。二人で分ける予定のおやつが限りなく等しく二等分されていたのなら、どちらを採っても、物質的な意味で公平であるのだからよいのだが、しかし現実はそのような等しく二等分されるケースなどままあるわけではない。バウムクーヘンを人の手で、いやなんなら包丁で切るのでもいいのだが、そのように切ったとして、少しでも大きいほうを食べたいという欲求が心の中でいとも大がかりに醸成されている子どもたちは、分割された二つのおやつの不均等さを見極めるために、目が血まなこになるのはおそらく避けられない。そして子どもたちは、この不均等さを見極めたあと、分割を執り行なった人(たいていは母親)に向かって難癖をつけ始める。ここで見えてくることは、公平さを求めるに際して「責任」ができるのは、できるだけ大きいおやつをとろうとする物質的な意味での責任と、しかしそれだけではなく、分割する、その行為自体にも、公平さが求められる責任があるということである。こうみると、物質的な公平さだけに頼って事を穏便に解決することはどうしても難しくて、それならば心理的な公平さを優先的に満たすことのほうが、まだ公平さを保てるのではないかと思ってしまう。もちろんこの両者は、仮想上で都合のいいように分けてみただけなので、どちらかが欠けた“公平さ”の概念などありえない。物質的な公平さが満たされないと心理的な公平さも満たされないと思うし、その逆もおおむねしかりだ。しかしそれでもいえることは、公平さの概念のうち、心理的な公平さを優先的に満たすことのほうが、全体の公平さの値を十分に上げることに貢献するのだということだ。ここで先ほどからちょこちょこ引き合いに出してきた、「責任」について、この責任の公平分担が、全体の公平――物質的な公平さと心理的な公平さのどちらも、そのすべて――に資する大事な要素であることを理解してもらいたい。つまりこういうことだ――自分の責任で、自分の実力によって事をなすのだから、その事の結末が良いほうになろうとも、悪いほうになろうとも、自分はそれで納得しなければならない。これは責任の一側面について措定したもので、しかし今回の場合、これがいうところの意味は、「より公平」を目指すにあたって、「責任」とはおおいに活用できるシロモノだと確信できることである。私がいうのは、責任の分担化が、「より公平」を成すようにするからにして、したがってこれを目指す場合、責任が二つあるならばそれを両者に分配させ、責任が一つしかないならば、二つに細分化することを試みるのが、望ましいということだ。複数の子どもたちが一つのおかしを欲するとき、ここで争っては平和的解決にはならないので、より公平さを目指すために、定める「公平ルール」がどのようなルールであらなければならないか。状況別のルールとその公平性を下にa,b…と分けて説明していきたい。状況別により、一つのおかしではないなどの場合も一応――その場かぎりの苦肉の策かもしれないが――記述しておきたい

(1) 一つのおかしを二人で分けあう場合

まず権利(責任)のルール説明について。おかしを分け合う二人が(権利1)(権利2)のどちらかを所有する

(権利1) おかしを二等分する分割の権利
(権利2) どちらを自分のものにするかを決める選択の権利

(1-原則)

二人が、どの権利を選ぶかの決定は、すばらしく公平手段な「じゃんけん」によって決める。じゃんけんに勝ったひとが(権利1)と(権利2)のどちらを採りたいか決めることができる。じゃんけんに負けたひとは残りの権利を手にする

一つのおかしを二人で分けるとき、A君が分けて、B君がどっちを自分のものにするか決めるようにすれば、不公平になることがない。ここでじゃんけんが果たす意味というのは、より公平さを求めることにある。権利らは、じゃんけんをしなくてもよいようなくらい公平さを期するものに設定してある。だから本来はじゃんけんがなくても十分に公平なのだが、もし、権利の選択の際に、彼らが同じ権利を有したいと主張して衝突した場合は、ここはまさしくじゃんけんの出る幕になるだろう。最初私はこう考えた。二人がどの権利を選ぶかの決定(すなわち原則の項)は、いきなりじゃんけんをするのではなく、最初は任意の決定に従ったほうがよいのではないか。任意の決定とは、二人に対し、それぞれどの権利を採りたいか願望を聞く。ここでその二人の願望がそれぞれの権利を指したならばこれほど平和な解決などないのだが、ここで権利の決定の衝突が起きてしまった場合、そのときになってはじめてじゃんけんを発動するというプロセスだ。つまり最初は任意の決定に沿い、それで解決しなかった場合は、じゃんけんの手段をとる。あとは原則と同じように、じゃんけんに勝った人が優先的に権利の決定権を有することになるわけだ。この任意の決定をじゃんけんの前に差しはさむやり方でさえは、べつだんなんら欠陥はないのだから、もちろんこの方法を原則として用いるものありだろう。それでも私が、これとは違うやり方を原則に用いたのには、それなりのわけがある。ミソは、相手は子どもだ。子どもは、どちらの権利が自らにとってより利益のあるものなのか、つまり、自分はどちらの権利のほうを採るべきか、ということを、合理的に思考することにはまだ慣れていない――少なくとも大人よりは。そのためにすぐ直観的な感情に走ってものを言ってしまうのだが、この感情が公に衝突してしまうと、理不尽にも、この感情(欲求)がより強く強固なものになぜかなってしまうので、そうなると、それらの感情(欲求)が満たされなかったときに、とてつもない不公平感が彼の中で芽生えてしまうことになる。そうなってはまずいので、先ほどの任意の決定によって願望の衝突が生じてしまう可能性もあるような、感情が衝突する場面は、できるだけ排除しなければならないと思うのである。しかして任意の決定は、やはり無くしたほうがよいのではと思ってそうしたのだ。まずは、子どもたちがどの権利を選ぼうかなどと逡巡するひまを与えずに、すばやくじゃんけんをさせて、そのあとにどの権利を選ぼうかと頭を悩ませるようにしたほうが――あまりにここで逡巡の時間が長かったら、制限時間を付けるのもいいかもしれない――心理的な公平さの面で望ましいことを、前もってアドバイスしておきたい

(2) 一つのおかしを複数人(三人)で分けあう場合

まず権利(責任)のルール説明について。おかしを分け合う三人が(権利1)(権利2)(権利3)のどちらかを所有する

(権利1) おかしを一番最初に選ぶ選択の権利
(権利2) おかしを二番目に選ぶ選択の権利、おかしを最初に切り分ける分割の権利
(権利3) おかしを最後に選ぶ選択の権利、おかしを最後に切り分ける分割の権利

(2-原則)

三人が、どの権利を選ぶかの決定は、すばらしく公平手段な「じゃんけん」によって決める。一番最初にじゃんけんに勝ったひとが(権利1)(権利2)(権利3)のどれを採りたいか決めることができる。次いで、次にじゃんけんで勝ったひとが残りの権利を選ぶ。最後に、じゃんけんで全敗したひとが残りの権利を手にする

じゃんけんをさせるまえに、上の権利らと原則の説明を子どもたちにしておく。このそれぞれの権利の公平さについて、どれほど公平なのか、あるいは、なぜ公平なのかについて丹念に説明するので、理解してもらいたい。スタンスとしては、選択のルール説明と分割のルール説明を一緒くたに説明してみようと思う

最初に選ぶ権利をもつ人は、分割の権利を持たない。三人いる場合はおやつを三等分しなくてはいけないわけだから、分割の権利は二人が持っている必要があり、しかし最初に選ぶ権利をもった人は分割の権利をもたないので、したがって残りの二人が分割の権利をもつことになる。問題はその順序だが、一番よいと思われるのは、選択の権利を二番目にもつ人が、最初に分割する権利をもつ。次いで、最後に選ぶ権利をもつ人が、最後に分割する権利をもつというルールである。このルールの公平さについて説明したい。一見すると、最後に選ぶ権利をもつ人が最後に分割する権利をもつというのは、一番不利なように思える。しかしここで重要なのは、最後の権利だからといって、選ぶほうも分割するほうも不利になるとはけしてかぎらない。人ごとに丹念に説明していこう。まず、最初に選ぶ権利をもつ人については、この人が仮に選ぶ権利まで持ち合わせてしまったら、それこそ不公平の極みといっても差し支えないだろう。最初に選ぶ権利があるということは、その人は必ずや一番利益のあるもの、すなわちここでいうといちばん大きいおかしになるのだが、これを選ぶもくろみが必然にあるわけなのだから、分割にまで手をおよぼしてはいけないのはコウモリの目でみてもわかることだ。次に二番目に選ぶ権利のある人について、この人が分割の権利に際し、すでに採りえる選択肢は二つしか残されていない。すなわち、分割の権利は二つに一つで、それは、最初に分割する権利を有するか、それとも、最後に分割する権利を有するかのどちらかである。二番目に選ぶ権利のある人が最後に分割する権利をもし有すとすれば、これはゆゆしき事態になる。なぜなら、すでに、最初に分割する権利をもつ人によって分割されたおやつを、自分の利益が、この与えられた状況の中で最上最善の利益を得ることができるように、どうにでも図ることができるからだ。たとえばの話、最初に分割する権利をもつ人がおやつを等しく真っ二つにしたとして、そのおやつがお皿の上に乗っていたとしたら、最後に分割する権利をもつ人が二つのうちのどちらでもいい一つをできる限り不均等に、つまり一つはびっくりするほど大きく、もう片方は必然にガラスの切片ほどになるように分けたとて、最終的に三分[さんぶん]されたおやつの大きさの割合は約5:4:1になるだろう。最初に選ぶ権利をもつ人が連綿した健全な精神生活に身も心もゆだねてきた凡人であるならば、まずもって5割の大きさのおやつに手を伸ばす。次いで二番目に選ぶ権利をもつ人が我が物とするおやつも、自らの利益を考えて、次に大きい4割の大きさのおやつを選び取るはずだ。そうなると一番小さいおやつを手にすることになってしまった人は、かつて、最初に分割する権利をもった人である。このような結末になってしまった理由は、ひとえに、最後に分割する権利をもった人が、自分の利益が大きくなるようにコントロールできるような選ぶ権利、すなわち二番目に選ぶ権利をも同時にもっていたからだ。だから一番公平さが保てるのは、二番目に選ぶ権利をもつ人は、最初に分割する権利を有すことなのだ。述べてきた例では、もし二番目に選ぶ権利のある人が最後に分割する権利を有していた場合、彼が自分の利益のために他者を陥れて、自分が得をするように図れる可能性があることについて説明してきたわけだが、じゃあ、私の勧めるような二番目に選ぶ権利をもつ人が最初に分割する権利を有すこの組み合わせでは、ほんとうに公平さを保てるのか、という向きもあろう。そこで考えてもらいたいのが、最初に分割する権利をもつ彼が、最初におやつを切り分ける状況において、等しく三等分された理想の分量を基準としたとき、その基準量より大きく切り分ける場合(5:a:b)と、小さく切り分ける場合(2:a:b)、悪意をもってやや小さく切り分ける場合(2.5:a:b)の三つを考えてみよう。切り分けるまえの一つのおかしを、等しく三等分した場合、その分量の比率は約(3.3:3.3:3.3)となり、この3.3の値が基準値になると覚えておいてほしい。それから最初の分割をするひとが、二番目に選ぶ自分のこの権利を、最大限活用できるように、自らの利益を追求する心理も、ぜひ、彼の身になった立場から考えてみてほしい。この例の主役は、二番目に選ぶ権利をもった彼なのだから。さて、最初の分割が基準量より大きく切り分けられた場合、比率は(5:a:b)となるが、この場合はもはや説明いらずといったようすではないだろうか。彼が5割にぶった切ってしまったおかげで、最初に選ぶ権利をもつ人はその5割を、つまりおやつの半分をも頂けることになるのだし、彼にとっても、本来の基準量よりも少なく受け取ることになってしまうのだから(それが自分のせいで)、なにもわざわざそうする必要もないだろう。では小さく切り分けた場合、その比率は(2:a:b)になるのだが、これではどうだろうか。すでに彼の悪意がひしひしと伝わってくるようすだが、この悪意の矛先は何にもまして(権利3)の人に向けられている。彼の魂胆はこうだ。(権利3)の人が(2:a:b)の比率から(2:4:4)のように最後を等しく分割した場合でも、(権利3)の人が2割のおかしを受け取ることになってしまう、つまり(権利3)のひとだけが損をしてしまい、残りの二人が得をすることになってしまう。彼はここで、2割の小さいおかしを(権利3)のひとに押し付けたい考えなのだ。しかし公平なルールのもとでは、そのような悪行をはたらいた人は、それなりの報復を受けることになる。彼の悪意を悟った(権利3)のひとが、彼を地獄へ道連れにするために対決を挑むと、すなわち比率は(2:2:6)となり、彼と(権利3)のひとはお互い傷つけ合って、みじめなほど弱体化し、それによって、(権利1)のひとが唯一漁夫の利に甘んずる結末となる。しかし心が痛いのは、彼の悪意によって善良な(権利3)のひとも傷つけられたことだ。場合によっては、その傷が癒えないこともある。まさに社会の縮図のようだ。ただこの場合において、彼は、自分が損をしてまで相手をおとしいれたいと思うようなよほどの理由がない限り、そのようなことはしないはずだ。もとより、彼がそうしたとして、自分は損をしないのなら別だろうが。最後の悪意をもってやや小さく切り分ける例は、たとえていうところの知能犯にあたる。大きさの比率は(2.5:a:b)、原理は一つ前の小さく切り分ける例と同じ。しかしこれはそれよりも彼が、被害者すなわち(権利3)のひととのぎりぎりのせめぎ合いを要求したといえよう。(権利3)のひとは、彼のこの対決の誘いに乗るかそれとも断るかの二者択一を迫られている。断った場合、比率はたとえば(2.5:3.8:3.8)となり、(権利3)のひとが2.5割のおかしを受け取って、少しばかり損する結末に終わる。これは、(権利3)のひとの売られたケンカは買うか買わないかの性格によるだろうが、もし彼の対決の誘いに乗った場合、(権利3)のひとは限りなく2.5割に近い大きさで切り分けるのがベーシックストラテジーなのだから、大きさの比率は(2.5:2.5:5)となって、先ほどと同じ結末を迎える――すなわち対決した両者が損をするという結末に。このように、二番目に選ぶ権利をもつ彼が、なんらかの悪意でも発動させないかぎり、二番目に選ぶ権利をもつ人が最初に分割する権利を有したほうが、三者すべての人にとって、限りなく、より公平である。そして最後に選ぶ権利をもつ人は、最後に分割する権利をもつことだ。そこで先ほどの二つの権利(二番目に選ぶ権利と最後に分割する権利)の組み合わせは公平ではないことがわかり、したがってもう一つの選択肢の、二番目に選ぶ権利と最初に分割する権利、この権利の組み合わせが、二番目に選ぶ権利のある人のもつべきものである。そうなると、最後に選ぶ権利のある人がもつ二つの権利が何になるかは、消去法ですでに決まってしまった。すなわち最後に選ぶ権利と、最後に分割する権利の二つになるわけだ

この方法を子どもたちに対して使うのはたしかに効果的ではあるだろうが、大の大人同士の取り決めにこれを用いるのはあまりおすすめしない。なぜならば、ここまで一再ならず申し上げてきた「権利の公平」さが、しかしそれほど公平ではないものだからだ。それがなぜ完全な公平ではないかを、賢い皆さんならお分かりであろう。(権利1)のひとは、このゲームにおいて、他の人の企図や悪意のなにものにも左右されず、ただ一番最初に選び取ることができる特権からして、一番有利な立場だ。選び取る際に、ただ、その状況下で一番大きそうなおかしを選べばよいのだから。なにも不利を被る可能性などない。次いで有利なのは(権利2)のひとで、やはり彼も選び取る順番が二番目だからというのが、その大きな理由だ。一番不利なのは(権利3)のひとで、この立場の人は、自分が、最後に残されたおやつを受け取るだけになるのだから、何も仕掛けることができないだけでなく、他の人によってもし悪意のある攻撃を受けた場合、それを回避する選択肢がない、ということはすなわち損をする可能性が最も大きいということで、これも不利といわれるゆえんだ。だから、最初にじゃんけんによって権利の決定をするという原則は、あらためて重要なことなのだろう。なにが得でなにが損かが決められるのは、えてして一つの要素、先に選べるかどうかの要素だけで決定されるものであって、けして、分割の責任の重さが、それを決定するわけではない。その意味では、分割の責任などただの気休めで、あるいはそれは、いくらかのまやかしによって、霊験あらたかに実現されている。しかしそれでもこの気休めがいまだに有効なのは、ひとえに人間の性質によるもので、それはなにかというと、責任を負担するということで、いかような結果でも、その結果に納得しなければならないと戒められる「責任の納得」とでもいえるような自己愛の言い訳(合理化)にほかならない。この自己愛を守るための合理化が無意識のうちに働いているのだろう。先ほど私は、このゲームを大人同士の公平分配に使うことはおすすめしないと言ったが、それでも、よくある醜い取り合いになるのが分かっているのなら、このルールを用いたほうがずっと公平で、したがって平和的解決をもたらすことを申し上げておきたい。若干の公平のばらつきはあるものの、それでもこのルールは、それなりの公平さを彼らにもたらしてくれることだろう。そこでぜひ参考にしてほしいのが、このルールの柔軟性を物語る応用法が、下の二つの例であることだ。心理的な公平さがいよいよ物質的側面の公平さと蜜月状態にかかずりあうところや、権利の公平さの若干のばらつきを均す手法などが盛り込まれているので、私自身、この下の二つの例は興味深く思うところなのだ。今からそれを書こう

(3) 二つのおかしを二人で分けあう場合

まず権利(責任)のルール説明について。おかしを分け合う二人が(権利1)(権利2)のどちらかを所有する

(権利1) 二つのおかしを二等分する分割の権利
(権利2) どちらを自分のものにするかを決める選択の権利

(3-原則)

二人が、どの権利を選ぶかの決定は、すばらしく公平手段な「じゃんけん」によって決める。じゃんけんに勝ったひとが(権利1)と(権利2)のどちらを採りたいか決めることができる。じゃんけんに負けたひとは残りの権利を手にする。(権利1)のひとは二つのおかしをそれぞれ二等分にするが、おかしが分けられたあと、それぞれのおかしの片方を交換し合う。たとえばバウムクーヘンとカステラがあったとして、それらをそれぞれ二等分すれば、独立した四つの個々のおかしが皿上に置かれることになるが、バウムクーヘンの一切片とカステラの一切片を交換すれば、分け合う二人のどちらもバウムクーヘンとカステラを半分ずつ受け取ることができる

前提として注意してもらいたのが、二つのおかしのありようについてだ。色々なありようが心に浮かぶが、たとえば同じおやつ、同じ大きさならば、そもそもこのゲームを持ち出す必要はない。同じおやつだが、大きさが違うならば、このゲームの恰好の対象だ。また、違うおやつで、違う大きさあるいは同じ大きさでもどちらでも、このような場合にもこのゲームを用いれば、二人の子どもそれぞれに公平におやつを分配することができる

公平分配の大まかな過程はこうだ。(1)じゃんけんによって権利の決定をする。(2)(権利1)を有したひとが、二つのおかしをそれぞれ二等分する。(3)二等分されたそれぞれのおかしの片方を交換する。(4)(権利2)を有したひとが、どちらのおかしのほうを自分のものにするか選択し、受け取る。(5)余ったほうのおかしを(権利1)のひとが受け取る

(4) 二つのおかしを複数人(三人)で分けあう場合

まず権利(責任)のルール説明について。おかしを分け合う三人が(権利1)(権利2)(権利3)のどれかを所有する

(権利1) 一つのおかしを一番最初に選ぶ選択の権利
(権利2) 一つのおかしを二番目に選ぶ選択の権利、一つのおかしを最初に切り分ける分割の権利
(権利3) 一つのおかしを最後に選ぶ選択の権利、一つのおかしを最後に切り分ける分割の権利

(4-原則)

二つのおかしがあるが、一緒くたにするのではなく、一つのおかしごとにゲームを行い、その一つのおかしが分配されてから、次のおかしを分配する、この手順をふむ。三人が、どの権利を選ぶかの決定は、すばらしく公平手段な「じゃんけん」によって決める。一番最初にじゃんけんに勝ったひとが(権利1)(権利2)(権利3)のどれを採りたいか決めることができる。次いで、次にじゃんけんで勝ったひとが残りの権利を選ぶ。最後に、じゃんけんで全敗したひとが残りの権利を手にする。一つのおかしを分配したあと、二つ目のおかしの権利の決定は、じゃんけんではなく、権利の逆転によって決定する。権利の逆転とは、(権利1)と(権利3)を入れ替えること。つまり、一つ目のおかしの権利のときに、A君が(権利1)、B君が(権利2)、C君が(権利3)を有していた場合、次の二つ目のおかしの権利の決定の際は、A君が(権利3)、B君が(権利2)、C君が(権利1)を有すことになる

原則に述べてあるように、あくまで一つのおかしごとに分配を行い、一つのおかしがそうして分配されたあと、もう一つのおかしについて同じ手順で分配をおこなうことが、公平さを求める点で重要になる。一つのおかしごとに一々ゲームをやり直すことはめんどくさいと思うかもしれないが、慣れてしまえばそれほど問題はない。それよりか、利便な方法で、権利の一貫化を代替えにしてみた場合の善し悪し事について考えてみたほうがいくぶんか有益に思われる。権利の一貫化とは、権利の逆転やおかしごとのじゃんけんなどによって権利を一々転移することをせずに、最初に持った権利を次も有すこと。A君が一つ目のおかしのときに(権利1)を手にしていたとしたら、二つ目のおかしの分配のときもA君はそのまま(権利1)を採ることになる。この方法のなにが良くないか。私はそれほど良くないとは思わないのだが、ただ先にも述べたように権利のそれぞれは、必ずしも完全公平ではなくて、特に(権利1)は一番有利で(権利3)は一番不利なのだから、この二つの権利を逆転させることで、より公平さが留め置かれることになるかと思う。だからやはり一々権利の逆転をしたほうが、公平さの面で言うならば良策だということだ。また、二回目以降の権利の決定の方法として、権利の逆転のほかにも、いちいちじゃんけんをしてもよいとも向きもある。が、それでは不運にもじゃんけんの連敗が起きたときに、その人はじゃんけんの連敗に対する不公平感にさいなまれる

 


 

ここまでおかしを例にとってつらつらと見てきたわけだが、この原理を措定すれば、もちろんそれは子どもたちのおかし戦争だけに限らずに、なべて様々な日常シーンについても活用できることを考えてみなければならない。この原理は広く活用されるに値するもので、その原理とは、すなわち、責任の公平分担が公平な結末をもたらすという現象である。公平の意味の中には、平和的解決、客観視など、多くの見方を孕んでいる。逆に考えれば、高度な公平の達成を求めるために、責任の個数を分化させたり、統合させたりと、状況に応じて責任個数を調節する必要も生じてくるだろう。そこで重要視したいのは、単に責任の個数を均等にあしらえばよいというものではなくて、そうではなく、公平を求めるうえで大切なのが心理的な公平さなのだということを、われわれはしっかりと気に留めておかなければならない

欠点相殺理論

二者の欠点を相殺しつつ、二者の長所を持ち合わせているものを考えなさい

(例) お金が心配なら1円だけ持ってきてください。それで足ります
欠点はお金がないというのと、かといって財布を持っていかないのは申し訳ない、というところである

»#h-j

不確実性の除去

将来の不確実性は取り除けば実現可能になる。しかし将来に不確実性は付き物である。不確実性=リスクを抑えようとするのは大事だが、最小限に抑えようとそれだけに時間を費やすのは賢明とはいえない。硬直性という新たなリスクを抱え込む結果になるだろう。正しいリスクを取れるように導くことが大切だ

»#h-k

不満の建設的利用[立場の上下反転]

条件や制限など、相手にとって不利な事を“限定”に置き換える

(例) 「最低二年間継続しないと罰金がかかる」というのなら、「二年以上継続される方限定で」

»#h-r

包摂療法

ある効果が原因で不和になった場合は、その効果を相手にも使うことで解決を図ることができる。つまり同じ効果で相手を包摂するということである。これを包摂療法という

(例) 集団間で簡単に不和を生み出す方法がある。われわれ対彼らに分ければいいのだ。そして集団間の敵意を弱めるためには、共通の目標を発生させ、お互いを協力させればよい

この例において、不和の原因となったのはわれわれ対彼らに分けたからだと考えられる。包摂療法では、まずわれわれと彼らを同じ集団にさせ、別のなにかを新しい“彼ら”に仕立て上げ、新しいわれわれ対彼らを作り出す。われわれは彼らを倒すために(共通の目標)、お互い協力して物事をこなすようになることで不和を解消するのである

筆記の高整理効果(“筆記”)

紙に書くことで原因を明確化し、冷静な思考ができるようになる。これを筆記の高整理効果という

無善悪の事由

話を聞きだすときや、誰も傷つけたくないとき、人を善悪で評価することをしないことで円滑に解決することができる。これを無善悪の事由という。実際に話を聞くときは、責める言い方をしてはいけないことが重要である

/a 未熟の事由

事由に未熟を使うことを未熟の事由という。これは無善悪である

a-例 話を聞きだしたいとき。その本人が自分も傷ついているが、誰が悪いというはっきりした原因がまだ分からず相手に対して完全な憎悪をもっているわけでもないとき、「誰が悪い」などのそのような決めつけは不快感をもたらす。そこで、“話で出てくる相手”を悪者にするのではなく、「相手の未熟さゆえに今自分が苦しめられているんだよ」と、“未熟”を事由として使って善悪を付けない。ここで重要なことは、「未熟は悪いことではない。だけど相手が未熟なままだとあなたが傷つくだけだから、相手にも教えてあげて気づかせる必要がある」というように、相手を悪者にしないことである

相談解決

まず相談される側の基本的姿勢として二つがある。一つは同意。「なるほど」「わかるよ」「大変だなあ」など。そのあとに「それでどうする?」と言うだけ。相手は自分自身で答えを見つけ、自分はただ誘導してあげるだけ。もう一つは、「もっと詳しく」と言うことである。「もっと詳しく」というのは、“もっとそれについて知りたいんだ”という意思表示である。その話題に自分も深い関心を持っていることを伝え、相手は「真剣になってくれているなあ」という実感を持つ。さあ、本題にいこう

相談する側には二種類のケースがある。一つはアドバイスや指示を求めている解決的相談である。もう一つは、指示を求めているというよりかは単に話を聞いてほしいだけという自己完結的相談である。解決的相談の場合は、相手は解決を求めているので、話をよく聞いた上で明確で客観的なアドバイスや指示をするのが望ましい。最初は話を聞くのに徹し、解決の段階においては、今度は自分が話す番というばかりにしっかり解決の手助けをする時間(自分がアドバイスする時間)を設けるのが大切である。この段階で相手が真剣に話を聞いていなかったり、のらりくらりと「でも・・・」と言って一つの解決策だけに固執しているような感じであれば、それは自己完結的相談のほうである。一方その自己完結的相談には、相手の中で答えが最初から決まっているケースと、決まっていなくて心がもやもやしているケースの二つがある。答えが決まっていない場合の自己完結的相談においては、自分が解決させてあげようとして指示を出したりするよりも、相手の自己実現欲求を引き出すことを意識したほうが望ましい。いずれのケースにしてもこの自己完結的相談においては、下記のフムフム療法が最適である

/a フムフム療法[非指示的療法]

自己完結的相談において、相手が求めていることはただ一つ、とりあえず話を聞いてほしいということだけである。この場合には、「こうしなさい」と直接的な指示をせず、ただ「うん、うん」とうなずくフムフム療法[非指示的療法]が有効である。ただフムフムうなずいているだけではなんの解決にもならないのではないかと思ってしまうが、そうではない。ただフムフムうなずいているだけでも相手の心理状態に変化が起こるのである。人は肯定的に評価されると、自信が生まれ、不安が取り除かれる。特に、信頼する相手や尊敬している相手からうなずかれ、認められるとさらに効果は上がる。そうすると、本来もっている自己成長欲求、自己実現欲求がはたらき、主体性と自主性をもって積極的に行動しようと思うようになる。この成長志向によっていい解決策が自ら生み出され、悩みや不安が取り除かれる可能性が高い。自己実現欲求は誰もが本来もっているもので、条件さえ整えば自己成長していけるものである。つまり自己完結的相談におけるフムフム療法は、相手を肯定的に評価・受けとめることで相手の自己実現欲求を引き出す目的があるのだ。自己実現欲求を高めるその条件としてもっとも大切なのが自己肯定感(“自尊心”)である。自分自身に対する自信、あるいはもっと広く、欠点を含めて自分を受け入れるといったトータルな肯定感のことを自己肯定感という。この自己肯定感を支えているのは、安定した好意的人間関係である。批判や命令ばかりでは自己肯定感は得られない。人から支持され、肯定され、称賛されて初めて自己肯定感が得られるのである。また得てして支持し、肯定し、称賛する人は相手からの好意を受けるので、自己肯定感を生み出す二人の人間関係は、一方が相手の話を聞き、同意し、支持することが相手を成長させると同時に、そのほうの好意から二人の人間関係をよくし、発展させる相乗効果になっているのである。これがフムフム療法の神髄である

テット・フォー・タット作戦

嫌いな人と一緒に仕事をしなければならない、しばらく一緒にいなければならないとき、そのままでは自分に心理的負担がかかってきてしまうため、嫌いな人を好きになる努力をしなければならない。まず思いつくことは、相手に対して好意や協調をみせることである。しかし一方的な協調作戦というのは、相手側から弱いと見られてしまう。どんな状況でも協調する無防備で無条件な協調行動は、かえって相手を強気にし、威圧的、競争的にしてしまい、その結果相手はむしろこちらを脅して従わせようとする。一方、最初から威圧し、対立的にむかう強気の作戦の場合でも、相手もまた反発し、対立的・抗争的に構えるだけである。そこで有効なのがテット・フォー・タット作戦とよばれるものである。訳は“売り言葉に買い言葉”、あるいは“しっぺ返し”。やられたらやり返すという意味である。つまり、協調には協調で応え、対立には対立で応えるものである。この作戦がなぜ有効なのか。これは人間関係において協調(協力)と対立(異論)は必要不可欠な要素であることを意味している。両者は、どちらかを認識するからこそ他方がまた際立ったり、このニつの要素がもたらすメリットを、つなげる“範囲”としての立体的役割をもつ。ライバル関係にある二人は確かに対立している反対の部分はあるが、だからこそお互いを刺激し合っている。嫌いな人との関係は、この協調と対立のうちの“対立”の関係でしか成り立っていないため、人間関係に不可欠な要素である協調と対立を二人の間に生ませることが不和解消に効果的である。特に、協調のほうの返報作戦が相手を協調的にさせるのに効果的である。相手の好意や協力にはすばやくお返しすることが大切といえる。このテット・フォー・タット作戦において意識すべきことは、相手から弱い、堅いと思われないような歩み寄る柔軟性をもつということである。協調が強すぎれば弱いと思われ、対立が強すぎれば堅いと思われてしまう。そのために、程度はもちろん大事だが、相手の協調には協調で応え、対立には対立で応えることが改めて大切なのである。また、この返報作戦を用いることで相手からしても自分の態度がそのまま返ってくることになるので、慎重に考えて行動するようになる。相手から、「かなり強いが、歩み寄る柔軟性はある」と思わせたとき、一定の緊張をもった協調関係が生まれるはずである

スリーパー効果[スリーパー回避]

例えば人を説得する場合、その効果がすぐに表れるとはかぎらないが、一週間、二週間と、しばらく時間が経過すると効果が表れることがある。これは、時間の経過によって、説得の際の話の内容が純粋に情報として相手に理解されるようになるために生じるものである。私たちは、人の話を聞くとき、相手のしぐさや表情と話の内容を一緒に受けとめている。ところが、時間が経過すると、話をした人に対する情報と話の内容とが分離して、話の内容によって判断が下せるようになる。このように、時間的経過が対話の内容と雰囲気・相手の情報を分離させる効果をスリーパー効果[スリーパー回避]という。つまり、時間的経過が純粋に話の内容だけを切り出し、それを全体的にとらえ、結果としてより理解できるようになるのである。関係が難航しているからといって、次々と攻め続けるのは望ましくない。理解させる(説得する)側も、理解できない(説得される)側も、冷却期間を設け、スリーパー効果が表われる頃を見計らって、再び対話をするのが望ましい

解消療法[原因療法]

問題の根本、すなわち原因の解消をすることができれば一番いい。例えば、一人で孤独に頑張っている人に対しては、「がんばれ」と言うよりも、「手に負えなくなったら、いつでも手伝うから。ほどほどにね」と言ったほうが相手の心にしみる。これは孤独の反対が連帯であるから。「がんばれ」は孤独を解消する言葉としては足りない。相手が今なにを背負っているのか、そして何を求めているのかが分かれば、それを解消する術を提示するのが効果的である

非択一的提案

自分の意見を通したいときは相手の意見を先に通してから自分の意見を通すという、択一しない提案が重要。これを非択一的提案という

(例) 「京都なんて行きたくない、沖縄のほうがいい」と友人が言った
「(じゃあもういいよと言うのではなく)じゃ、今年は沖縄で、来年は京都にしようか」というように、相手の利益を少し多めになるように考えることも重要

行動療法

問題行動を直し、適性行動を触発・強化する心理療法の一つ。方法としてはさまざまあるが、代表的なものをニつ挙げる

a 脱感作法
恐怖対象に徐々に近づいていける目標を設定して、緊張が生じたら弛緩をすることなどを取り入れて、徐々に近づいていく方法

b トークン・エコノミー法
好ましい行動をとった場合にトークン(偽貨)をもらえ、このトークンによって自分の欲しいものととりかえられるようにしておき、好ましい行動を強化しようとする方法

治療的ダブルバインド(“グレゴリー・ベイトソン書付”)

治療的ダブルバインドはダブルバインドを積極的に利用することで精神治療に役立てようとするもの。矛盾する指示に対する二者択一的な状況に、相手を置く点では通常のダブルバインドと同じであるが、そのどちらを選んでもよい結果となる(勝つ)ようにする点が異なる

»#t-k

通過の杞憂排除法

ないものとして考えるのはそのことを常に考えていなくてはいけない。であれば、やったふりをして通り越せば、あとは今まで通りである。これを通過の杞憂排除法という

/a 仮定思考(“用語解説”)

仮定思考とは、命題を構成する前提を肯定と仮定することで、全体的な思考をするための思考法である。一つの物事や一つの命題のなかにも、いくつかの前提が仮定されている。もしこの中のどれか一つの前提に疑問を抱いてしまうと、語り手が総意として伝えたいことを理解するのをさまたげてしまう

「思考とは、最小のエネルギーでおこなわれる実験的試みである」
<アンナ・フロイト>

この命題の、たとえば“ほんとうに思考が最小のエネルギーなのだろうか、ほかに最小のエネルギーで何かをなせることはあるだろうか”と疑問をもつことや、“実験的試みとはなにを意味するのか、その試みはなにを目的とするのだろうか”と間接型思考をしてしまうと、この命題の理解のよどみない進行をさまたげてしまう。このとき、アンナ・フロイトの言いたいこと、つまりこの命題にかけた彼女が伝えたいことを理解するためには、どうしても一々の前提のフックにひっかかってしまったところから自分の服をほどいてやらねばならない。その解決方法はただ一つ、ひとまず疑問をおいといて、それがそうであると仮定することである。前提を彼女のいうとおりのものだとして仮定する、すなわち前提を故意に通過することで、命題に対する全体的な思考、いいかえれば直接型思考をする土台をつくるのである。したがって、仮定思考の目的は、語り手の述べることをひとまず理解するための手段にほかならない


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