情憶

情憶とは、個人が記憶しているあらゆる情報、感情、体験、思い込み[先入観]のこと。広義での記憶された情報そのものを指す。また、知覚されたものに対して情憶が随伴することを「転移(“用語解説”)」という。

情憶とは、個人が記憶している情報のことである。前提を作るというのは、情憶を作るというのとイコールである。情憶を作るのは記憶された情報である。肯定された情報は信仰や理性という名の情憶となり、肯定されなかった情報はそのまま記憶となって新しい情憶を形成する。

イデアと第一実体について

a-1 イデアと第一実体の違い

イデアと第一実体、この両者の違いは“共有の有無”、すなわち共有されているかされていないかの違いである。

“丸”の厳密な定義を知らなくても、私たちは何が丸で何が丸でないのかを知っている。コンパスで描いた流麗な丸も、手で雑にかたどった円形の輪らしきものも、それが丸であることを知っている。赤色も同じように、だいたいの赤色をしていれば、多くの人はそれを赤色と言うだろう。これが普遍的に認識されている共有部分の情報である。これを「イデア」という。イデアは多くの人々に共有されない限り、その情報の内容が変わることはない。赤色についての定義の情報が青色の単語に対してあてがわれるというような変な柔軟性を持ちえたとしたらとたんにえらいことになってしまう。それだから、定義上の意味はその単語に対してのみ付随しておくべきほどの低い柔軟性さえ有していればそれでよいのだ。

一方で、個人的な事情を含めた部分はわざわざ言わないと相手には分かってもらえない。この個人的な観念の部分を「第一実体」という。

一つの単語が私たちと関わりを持つとき、単語の情報はイデア[共有先入観](定義上の意味、その他共有される観念)と第一実体[個人的先入観](個人的な観念[感情、意見など])の二つに分けられる。しかしながらイデアも第一実体も“個人が記憶している情報”であることには変わらない。情憶はその記憶された情報を指す。情憶は個人の記憶と思考を媒体にしてあらゆる概念に“先入観”として付随する。

私たちは当然赤色を見ることで赤色という単語を思い出すのだが、赤色そのものを見なくても赤色の単語を思い出すことはできるし、赤色を頭の中に思い浮かべることもできる。現実に事物としての赤を見なくても、赤色についての情報を得ていなかったとしても、赤色に関してすでに持っている情報を記憶を媒体にして自由に思い出すことができる。これは私たちの中に赤色に対する情報がすでにあるからである。

あからさまな赤色は、なるほど誰にでもそれが赤色であることを明白に指し示しているだろう。ではその赤色がだんだんと赤色でなくなっていくにつれて、その変化の中で、ついにはそれが赤色とは呼べないだろうというところまできた、その変化値、つまり赤色が赤色ではなくなっていく変化の閾値は、果たして全ての人が同じ閾値を指すだろうか。いや、指さない。ある人はそれをまだ赤色だと言い張っているかもしれない。別のある人は「いや、これはマゼンダ色だ」と主張するかもしれない。これはイデアが抽象的な観念であることを示し、また同時に第一実体が個人的な観念であることを示している。

a-2 言葉におけるイデアと第一実体

言葉の意味は普遍的認識のイデアと個人的認識の第一実体の二つに分けられる。同じ言語を扱う人々の間で無理なくコミュニケーションが成り立つのはイデアによるものであるが、これは第一実体と同じ情憶の一つである。イデアと第一実体、この両者の違いは“共有の有無”、すなわち共有されているかされていないかの違いである。

(例) 書物が博物館の倉庫にしまわれてしっかり保存されている状態は、物理的には保存されているといえる。しかし一方で、例えば私たちがその書物に興味がなく、たびたび引き合いに出される有名な書物ではなかったとしたら、その書物は私たちにとって保存されているとは言えない。その存在が忘れ去られてしまえば、たとえ保存されて残っていても保存されていないのと同じなのだ。

「保存されているのに保存されていない」といった文法が破綻している文章でも結果的に相手に伝わる。それは意味の共有がなされている部分があるからである。

固定的情憶

私たちは実に多くの物事に対して、それを判断するために特定の価値付けを行うことが多い。判断の際にたびたび要請されるその情憶は「固定的情憶」ともいえるだろう。では基本的な固定的情憶の例を挙げてみよう。
(a) 良い、悪いという「善悪価値」 例)情報があるは良い、情報がないは悪い
(b) 好き、嫌いという「好悪価値」 例)カラスは好き、カラスは嫌い
(c) 優れている、劣っているという「優劣価値」 例)美男美女,物事が深い・浅い、考えが高尚・低尚
(d) 物事を極端に位置づけようと試みる「ニ極論価値」 例)「“誰も”・・・しなければ」「“何を”しても良いのか」

上に挙げたのはあくまでよく見られる基本的な固定的情憶の例にすぎない。もちろん全ての人に必ずこの反応がみられるというわけではない。

固定的情憶の起源

固定的情憶の多くは生理的反応に根ざしている。例えば好悪価値の起源は、私たちが赤ん坊の頃から自分を気持よくさせてくれるものを好き、自分を苦しめたり辛い体験をもたらすものには嫌悪の反応を示した生理的反応から見ることができる。全ての人は赤ん坊のときの快楽原則にしたがって好悪の価値付けを今に根づかせているのだ。また人は自らの個体が生き残っていくための必要スキルとして“賢い選択と行動”を身につけなければならない。私たちはこれを本能的に深く悟っている。そしてその賢さは私たちを幸せにしてくれる。善悪価値や優劣価値がその本能的要請の反応だったとしても、何ら不自然なことではない。

情憶の働き

/a 経験的前提[先入観]の含み

経験的前提[先入観]の含み→情憶が備わること

経験的前提の含みを得たコクマルガラスの単語は、その人にとってのコクマルガラスになっている。これがいわゆる先入観である。私たちはいつも、スタート地点がゼロではないところから思考を始めている(→有心思考)。この前提の含みは無意識の働きである。といってもその無意識は認識できないから無意識なのではない。無意識に働いてしまうから無意識なのだ。

/b 全体先知

ある物事に関しての全体的なイメージが情憶として備わっている場合、そのイメージがまず先に思い出される全体先知となり、そこから記憶を遡行することで部分を意識化していく心的作用がみられる。

b-例 友人との会話にて

私が自身の幼少期についての話をしたのですが、友人はそのときの境遇を痛ましく思ったようで、私に「普通の人より不幸な境遇に置かれているということを、子どもの頃の君は悲しく思っていたの?」と聞きました。私は「そのときの自分はこの境遇が不幸なのだということを自覚していなかったから、悲しいと思ったことはなかったよ」と言いました。そこから私の回想が始まって、たとえば母が離婚して新しい母と初めて対面したときの場景が今も忘れられない理由について、そのときの自分の心境を想像も交えながら語ったり、父の都合で転校をくりかえしたために固定した友達がなかなかできなかったときの当時の自分の心境を語ったりしたのですが、ここで私が語った一つ一つの場面についての心境はいわば<部分>に相当するものです。そして<全体>とは、最初にこれら過去の境遇を当時の自分は悲しいと思ったことはなかった、と言った結論のことを指しています。少なくとも<全体>を述べる時点では、私は過去の一つ一つの出来事についての自分の心境、すなわち<部分>について意識していたわけではありませんでした。しかしそれでも<全体>を先に述べることができたのは、その結論に導いた諸原因である<部分>について、はっきりとは言えないまでもおぼろげに理解していたからです。だから最初から肯定否定ができたのです。

/c 具体と抽象の属性

今、目の前に三つの財布があったとします。財布Aは迷彩柄のナイロン製の財布、財布Bは黒い皮製の長財布、財布Cはがま口型の小銭入れです。

仮に私たちが個物を個物として認識する認識手段しか持っていなかったならば、これら三つの財布は財布Aは財布A、財布Bは財布B、財布Cは財布Cであって、それ以外の考え方を私たちはしないでしょう。

しかし、私たちは財布Aは財布Aというふうにそれぞれの個物を別のものとして認識すると同時に、互いに別々の特徴を持つ三つの財布を“財布としては同じもの”というふうに認識することができます。 これが「抽象による形相の認識」です。

意識について

/a 意識の優先順位/意識度/意識値

そもそも意識するとは、対象について自己が感知していることを客観的に認識していることである。友人と会話をするときはその会話に意識を向けていなければならない。このとき友人との会話をすることについて向けられている意識が意識の主体になっている。ただ実際には友人の周りに写っている物や美男美女の笑顔、自分の座っているイスの座り心地、辺りに漂う馥郁たる香り、周囲の雑音など、それらも微弱ながらに意識されている。一つの主体的な意識は、それを構成する複数の意識の複合体である。そしてそれぞれの意識が今どの程度意識されているかを測ることで「意識のプライオリティー[優先順位]」を付すことが可能である。それぞれの意識の度合いが「意識度」、これをアナログ値で表わしたものが「意識値」である。意識の優先順位の第一項に君臨する意識のことを「第一意識」という。

/b アナログ・システムに属する意識

私が考える意識の性質とは、まず意識がアナログ・システムに属するものであることの説明から始まる。デジタルとアナログの違いについてだが、これは数と量の違いである。数は数えるという行為の産物、量は測定するという行為の産物である。数を数えるとき、われわれは各整数の間を飛び移っていく。二つ、三つの間には飛躍がある。隣り合った整数間のこの非連続が、数がきっちり正確たりうることの理由となっている。ところが量の場合にはこのような飛躍は存在しない。そして飛躍が存在しないという理由から、いかなる量もちょうどぴったりということはあり得ない。トマトがちょうど三個あるということはあるが、水がちょうど三リットルあるということはない。量に関して、われわれはいつも、およその話ですましている。デジタル・システムはオンかオフの二者択一的特性をもつ。アナログ・システムは出来事の強度に応じて連続的に変化する。デジタル・システムは数を含むシステムに類似し、アナログ・システムは量に強く依存している。生物間または生物内で起こる事、つまり意識はデジタル・システムかアナログ・システムのいずれかで説明が可能だ。とりわけアダプティブな意識というのは、絶えず起こりうる環境の変化に対して柔軟な対応が求められる。意識の性質は、たとえば完全に意識されるとか、知覚されたものがまったく意識されないとか、そういった二極論的なデジタル・システムで語れるものではない。意識されるものはそれに見合うほどの意識値を示しているだけで、知覚していても意識されないのは、意識値がゼロなのではなくゼロに近い低い値を取っているからである。意識は「意識値」という量的な概念を使ってその大きさが説明できる。ちなみに意識されるものと意識されないものの間の境界線のことを「意識閾」というが、この意識閾の定義はいつも曖昧なままである。

意識の性質がアナログ・システムに従属することが分かったことで新たに見えてくるものがある。意識の基本的な性質について述べていこう。
(1) 意識度の強弱は興味の度合いによって決定される
ある物事に対しての興味が強かったり期待が高かったりすると、人は無意識のうちにその物事を強く意識する。強い興味や高い期待が意識に影響を及ぼすことを「カラーバス効果」という。朝の占いでラッキーカラーが赤だと言われた人が街中で赤色の物にばっかり目が行ってしまうのもカラーバス効果によるもの。
(1-応用) 相手が自覚・意識していることを話題にすることで相手が俄然興味を高める。また、そのことについて褒めると相手はうれしくなる。
(2) 意識度の高低は意識の優先順位を反映している
意識値を高いものから順番に並べたときに、そこに意識のプライオリティー[優先順位]ができる。仮に意識値の総和の限界値が100だとして、目の前にあるリンゴに70%、座っているイスに10%の意識を向けていたとすると、意識の優先順位の頂点に立っているのはリンゴ、次いでイスである。意識度の高いもの、関心の強いものは低いものより当然強く意識されるので、この場合はリンゴが意識の主体となっている。
(3) 意識値の総和には最大限界値がある
意識には、集中できる最大の限界値がある。そのとき設定された限界値を超えることはできない。たとえば意識値の総和の限界値を100として、リンゴに70%、スピーカーから聴こえてくる音楽に30%の意識を向けていたとしよう。実際にこのようなことはありえないのだが――なぜなら意識というのは多くのものに分散的に振り分けられるものであって、リンゴだけを見ているつもりでも、視界に入っている他の物、自分が今地を落ち着けているイスの触覚等、あらゆる意識の対象に対して微々たる意識を分散的に向けているからである――単純な例として採用している。このとき意識値の総和は限界値に達し意識の飽和状態であるため、ここでリンゴにもう10%の関心を集めようと思ったら、その分、聴こえてくる音楽に対しての関心を10%下げる必要が出てくる。意識値の総和が飽和状態になったとき、それを超えるような意識値は含ませることはできない。ただし意識値の合計はいつも一定の値を示すものではない。時と場合、またその人の体調や精神状態によって意識値の総和値は小止みなく変動する。
(4) 意識度が高いものほど思考の比重は大きくなる
仮に意識値の総和の限界値を100としたとき、リンゴに80%の意識を向けていれば、そのリンゴが赤色だということも分かるし、丸い形であることも認識できる。ややもすると、そのリンゴがおいしそうか、マズそうか、もしおいしそうなら食べてみようか食べてみるまいか逡巡する余地も残っていそうだ。しかしリンゴにそんな80%もの意識を向けていると、自分がイスに座っていることや、スピーカーから音楽が流れていることも忘れてしまうほどにリンゴ以外の他のことに関して意識がいかなくなってしまう。これがもしリンゴに50%程度の意識度であれば、残りの50%でそのイスが黄色であることや、流れる音楽がLinkin Parkの「The Messenger」であることにも気づける。友人と楽しくおしゃべりしながら街中を歩いているときは、どんなお店の前を通ってきたかは微かに憶えていたとしてもすれ違った人々がどんな人たちだったか、カップル同士が多かったのか、女性が圧倒的に多かったのか、意外にも老人夫婦らでごった返していたのかどうかにはほとんど無関心だったに違いない。だが一人で街中を歩いているときは、しかもそれが街中観光だったとすれば、どんなお店があったかに第一の関心が置かれるだろうし、すれ違った人々がどんな人たちだったのかもすぐに思い出せることだろう。私たちは同時に複数の事を思考するのは苦手な生き物である。したがって意識を振り分けることで同時に物事を把握しようとするよりも、第一意識を頻繁に切り替えることで複数の物事を把握しようとする傾向がある。
(5) 意識度の構成は常に五感+思考から成る
意識の対象になるのは、外界からの刺激を感知する五感に限られるものではない。たとえば彼が思索にふけっていれば、視界にリンゴやイスやパソコンがあって、それらが直示的な理由から、リンゴであり、イスであり、パソコンであることくらいを知っているだろうし、なおかつそれらが示す色や形くらいまでも分かるかもしれない。それでも今の彼の意識の中では思索にふけることが第一意識に君臨しているのだから、せっかくの思索を分断させないためにも思索以外のものに意識の比重を傾かせるのは難しい。思考も五感と同様に、常に意識度の幾分かを担っている。意識を向けること、意識をすること、その対象となるものは全て、意識を引き受けるか引き受けないかの選択の対象となり得る。
(6) 一つの意識の達成には複合的なプロセスが見られる
実際に意識というのは、いくつかの意識が集合的に組み合わさった結果の上に成り立っている。例えば歌を歌うときは、まず「歌を歌おう」と自己が意識するが、この一つの意識の達成のためには複数の部分的な意識が同時に働かなければならない。すなわち、声帯を震わせて声を出すことへの意識、最適な音程を出すことへの意識、発せられた歌声を聴いて即座に音程などへの修正が加えられるフィードバック機構の意識、メロディーやリズムに合わせる意識、歌詞への意識などは「歌を歌う」という一つの意識を達成するために形成される部分的な意識の集まりである。それら部分的な意識が全体的な意識の達成のためにバランス良く散りばめられ、それら個々の意識が程よく達成される結果の上に「歌を歌う」意識の高度な達成を雅やかで美しい歌声にしてもたらしてくれるのである。ところがその意識バランスが崩れると、結果的に歌い上げられたその歌声の完成度に影響することになる。音程の最適化への意識が薄れると、結果的に発せられる歌声のその美しい声に100点は付けられても、音程のズレに皆顔をしかめる結果となるだろう。ただしこれは技術的達成の類とはまた別である。
あることを成すとき、まず意識はその達成のために必要な部分的要素へとバランス良く向けられ、それら個々の意識が複合的に組み合わさった結果としてあることを成すようにするプロセスが見られる。それから、歌を歌うという意識は、歌を歌うことを達成するためだけに形成された意識であることにも注目されたい。つまり何かを成そうとしたときその達成のための複数の意識が、情憶も含め、即座に設けられるのである。
(7) 意識的達成と技術的達成は密接な関係にある
一つの達成は、主に意識的達成と技術的達成の相乗によってなされる。技術的達成とは達成に必要な知識や感覚を知っていることをいい、意識的達成は対象への意識を強くし十分に注意を払うことでその達成に資することをいう。“体で覚える”というのは技術的達成の典型例である。ペン回しにものすごく意識を集中させていても、彼にとってそれが初めてのペン回し挑戦であったとしたら、一発で彼が上手くペンを回せる可能性は決して高くはない。逆に彼がもしペン回しの名人であったら、簡単な技であればあるほどその達成に必要な意識は低くしておいても済む。意識的達成と技術的達成はそれぞれに取って代えることはできない。したがってどちらか一方でも完全に欠けていればどんなに簡単な事でもその達成は不可能である。

情憶の強化

/a 情憶が強化される要因

情憶にもそれぞれ根深さの違いがあり、通常は次の二つの行いによって深さの強化がなされている。
(1) 意識の反復
頻繁に同じ情憶が使われるといったことで、一般的には固定的情憶や抽象的なものが挙げられる。人の顔は皆それぞれ違うが、抽象的な意味でそれらは全て人の顔であることを私たちはすでに認識している。迷彩柄のナイロン製の財布Aも黒い皮製の長財布Bも、私たちはそれぞれ財布Aは財布A、財布Bは財布Bというように別々のものとしての認識がありつつも、同時に財布としては同じものだと認識している。こういった抽象的な階層に位置する概念は意識の反復によって根深く強化された情憶の一例である。
(2) 瞬間的意識の強さ
意識されたときのその瞬間的な強さが記憶力の程度を決める側面がある。例えば期待するときや生理的に強い衝撃を受けたときの意識は特に記憶に残りやすい。期待とは潜在的にそれを強く意識していることを意味する。また、楽しい、感動、驚愕、絶望、恐怖、痛い、苦しい、辛い[つらい]、軽蔑、劣等感など、心や身体が予期せぬ強い衝撃を受けたときは強く意識が働き、その意識は根深く記憶されることになる。

/b 強化された情憶の特徴

意識の反復や瞬間的意識の強さによって深さが強化された情憶はどのような特徴を持つか。注目すべき4つの特徴を挙げる。
(1) 転移の省エネ化
転移とは、知覚されたものが概念に随伴する働きを指す。
(2) 頻繁にその情憶が使われる
パレイドリア錯覚のように脳の補完認識に使われやすくなる。
(3) 記憶力が高まり、その先の学習によるさらなる具体化に対応しやすくなる
迷彩柄のナイロン製の財布A、黒い皮製の長財布B、がま口型の小銭入れ財布C、「財布」に関する抽象概念を強化された情憶として持っている私たちはこれら特徴の異なる三つのものを「財布としては同じもの」と抽象的に認識しつつも、その上でそれぞれ別々の特徴を持った財布として具体的に認識することができる。これは「財布」に関する抽象概念が高い記憶力によって安定的かつ簡単に引き出せるように強化されていたからこそ、その先のさらなる具体化に対応できたのだといえる。
(4) 記憶からその情憶を消し去りづらくなる


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