アンナ・フロイト書付

自我の統合機能

/a 自我の防衛と統合

人が環境に適応しようとするときの役割の主体は自我である。しかし、環境条件が厳しい場合には、自我にとって外界(外部環境)は脅威となり、不安のもととなる。それでもエスの衝動を満足させようとすると、外界との間に葛藤を引き起こす。そのことを学んだ自我は、自分自身の内部になるエスをも脅威と受け取り、不安を感ずるようになる。そればかりか、人格が発達するにつれて超自我が形成され、自我に対してエスを禁止するよう命じるので、超自我も不安を呼び起こす。そこで自我は、外的・内的なあらゆる脅威から身を守るために、脅威の根源であるエスに対して、抑圧という方法で自己防衛を行う。その結果、自我は不安を免れることができる。しかし、もともと自我はそれ自身のエネルギーをもたないので、もしこの抑圧という防衛が過剰になると、エスから供給されるエネルギーが枯渇し、自我が弱体化して本来の適応の目的は果たせなくなる。そこで、ふつうの人間がなぜ環境内で適応できるのか、また健康でいられるのかを考えたとき、自我にもう一つの機能を仮定する必要が出てくる。それが自我の統合機能である。自我の統合機能とは、心の各機能の秩序づけと調整を積極的に行い、人格全体の統合をはかり、安定性をもたらすものである。この機能は、自我が単に受身的に葛藤を避けるための調整を行なっているのではなく、人格の中枢機関として、積極的、能動的に各精神機能を統合するという、自我の自立性を示している

/b 防衛機制[適応機制]

自我は精神内界の意識的な安定を保つために、それらを解消して自己を防衛する種々のメカニズムを無意識に発達させていく。これを防衛機制と呼ぶが、これは適応の過程で形成されるものなので、適応機制ともいえる。抑圧もこの防衛機制の一つである。この機制は、現実を歪めたり、否定したり、隠蔽したり、逃避したりなど、現実に直面しない非合理的な方法なので、柔軟性に欠ける使い方をすると、意識化もより困難となり、精神の発達を妨げる結果にしかならない。これらの防衛法が実際に用いられるときは、種々の防衛法が同時に組み合わされて利用されることが多い。健康な人間は、通常その場、そのときでいくつかの防衛機制を組み合わせて使用しているが、個人が基本的に用いる防衛がいずれかの防衛に偏り、いわばその人の性格そのものになっている場合がある。これを、W・ライヒは性格防衛、A・フロイトは恒久的防衛と呼んだ。以下に典型的な自我防衛機制を示す

b-1 現実否認

知覚を拒絶することによって不快な現実から自己を守る。白日夢は現実否認の一種であるといえる

b-1-例 日常生活における現実否認
たとえば幼児にとって、現実否認の手段というのはなにも空想のみではない。一般に大人が子どもの遊びにつき合うとき、あるいは子どもを安心させようとするときにさとす種のやり方には、現実否認を積極的に示している場合が多い。大人が子どもにあたえる喜びのうち、多くのものはこの種の現実の否認によってつくりだされるものである。普通、よく聞かれるように、非常に小さい子どもにむかってすら「なんと大きいんでしょう」といい、事実は全く逆であるにもかかわらず、「お父さんのように」強い、「お母さんのように」器用だ、「兵隊のように」勇敢だ、「お兄さんのように」我慢づよい、などという。子どもを喜ばせようとするときに、もっぱら現実の事実を裏返しにすることは、もっとも不自然なことである。子どもが傷をすると、大人は「もうよくなった」といい、子どもが嫌う食べものだと「ちっともまずくない」と教え、誰かが外に出て行って、いなくなって寂しがっていると「すぐ帰ってくる」といい、子どもを安心させようとする。それだけではなく、子どもは子どもで、こうした慰め方を利用するようになる。苦しいことがあると、「なんともない」などときまっていうようになる。ある二歳の少女は母親が部屋から姿を消すと、いつもきまったように、「ママ、すぐくる」と機械的につぶやくのであった。ある子どもは、にがい薬を飲ませられるときには、いつも、「うま、うま」という言葉をあわれな声でいうのであった。この言葉は看護婦が薬を飲ませるとき、薬をうまいものと考えさせようとしていたからであった。/大人の客が子どもにもってきてやる贈物の多くは、以上と同じような傾向を示している。小さいハンドバッグ、小さい日傘、こうもり傘は、小さい少女を大人のレディのような格好にさせるものである。杖、制服、いろいろな玩具の武器は、小さい少年を大人のような格好にさせるようにできている。人形もいろいろの遊戯に役立つというだけでなく、架空的に母親らしさをつくりだすのに便利なものである。他方、鉄道や自動車や積み木はいろいろの願望をみたし、昇華する機会をあたえるだけでなく、子どもの心のなかに、世界を支配できるという楽しい空想をおこさせる

b-1-a 白日夢[はくじつむ]
阻止された願望を空想による達成でみたす。原義は、非現実的な幻想にふけること

b-2 補償

望ましい特性を強調することによって弱点をかくすとか、ある領域の欲求不満を他の領域を堪能することでおぎなう。この補償行為はコンプレックスを補う為に行われるので、失敗しやすく挫折につながりやすい

b-3 同一化[同一視]

自分にない名声や権威に自分を近づけることによって自分を高めようとすること。他者の状況などを自分のことのように思うこと。「とり入れ」としての意味につかわれることもある。この同一視は他人から他人へ伝染する

b-3-a 不安をおこすものを身体的表現で模倣すること
b-3-a-1 同一視という防衛法を意図的に、意識的に利用していた例。彼女は自分の家のホールを通ることを恐れていた。というのは暗いところに幽霊がでるかもしれない、という不安があったからである。しかし、いろんな風変わりな身振りをしながら通れば、恐ろしくないということを発見した。間もなく、彼女は、誇らしげに、いかにして不安を克服したか、という秘密を弟にあかした。「ホールを恐れる必要なんかないわ」「出てきそうな幽霊の格好をしていればいいのよ」と彼女はいった。これは彼女の呪術的身振りが幽霊がそうするだろうと思った運動を表現していることを意味している

b-3-a-2 子どもの多くの遊戯のうちには、鬼ごっこのように、仲間の一人を恐れられている者にしたてて、不安を楽しい遊びに変化しようとする方法も、ここで思い出されるはずである。ここから子どもがこのんで遊ぶ擬人化の遊戯を研究するのに新しい一つの立場がはっきりしてくる

b-3-b 攻撃そのものとの同一視
自分に不安をあたえる人のある属性を自分のものとしてとり入れ、不安経験を処理する。攻撃者を擬人化し、その属性を先取し、攻撃を模倣することによって、人は恐怖をあたえられる者から恐怖をあたえる者に変化する。歯の治療によって痛い思いをさせられた子どもは、のちの遊びで毛糸をナイフで切ったり、消しゴムを半分に切ろうとしたり、鉛筆の先をとがら始め、先を折ってはまたとがらせはじめる。「快感原則の彼岸」(1920年)という論文で、フロイトは幼児が不快な、あるいは、外傷的経験を処理する方法として受動的役割から能動的な役割をとるように変化することの意義を詳細に論じている。「もし、医者がこどもの咽喉を検査し、あるいは、ちょっとした手術でもしたならば、そのときの驚きの経験は、その後で遊戯をするようなことがあるなら、確かに遊戯の主題になるにちがいない。しかし、この場合に、ほかの理由から生ずる快感も、みのがすことはできない。受身な経験から能動的な遊びに移ってゆくことは、自分の身にふりかかった不快な出来事を遊び友達にふりかえ、友達にむかって復讐をはらす機会をつくりだすことになるのである」

b-3-c 攻撃者との同一視
以上の例では、不安が過去のある出来事に関係していたのであるが、そうではなく、不安が、将来おこるかもしれないあることに関係している場合にも、同じような役割交換がおきるのは面白い。意味もなく突然に攻撃的になるときは、なにかをかくしておこうとする心理が裏にあることが多い。保育園にいる子どもで戸口のベルを激しくならす習慣のある子どもがいた。この少年は、召使がドアをあけてくれると、そのやり方がのろく、不注意だといって大声で𠮟るのであった。彼はベルをおしてはぷんぷん怒ってはいるが、逆に、分別もなく強くベルをならすやつだといって𠮟られはしないか、という不安でいっぱいであった。彼は召使に𠮟られはしないかと思ったから、𠮟られる前に召使を𠮟ったのである。この予防手段として召使を𠮟る激しさは、彼の不安の強さを示すものであった。彼は自分を攻撃するかもしれない実在の人物に対して、わざと攻撃的になっているのである。彼は召使に対して罪悪感をいだいていたが、その召使の攻撃的態度を自分にとり入れ、受身から能動的役割にかわり、攻撃的行為を召使に向けたのであった。代理の人物に攻撃的になっているのではない。攻撃者と被攻撃者との役割の交換はこの場合、完全におこなわれているのである

b-4 取り入れ[摂取]

同一視の一種。外部の価値や基準を自我構造の中に結合する。そうして外部からの脅威としてそれにもてあそばれぬようにする。この取り入れは、発達過程においては道徳心や良心の形成に役立つ。しかし度が過ぎると主体性のなさに繋がったり、他人の業績を自分のことと思い込んで満足する(自我拡大)、自他の区別がつきにくい人間となる

b-5 投影[投射]

自分自身の中にある受け入れがたい不快な感情を、自分以外の他者が持っていると知覚すること。自分の心の中の不快な感情を対象のなかに移しこんで、それを対象の性質だと思い込む心理。例えば、自分が憎んでいる相手を「憎んでいる」とは意識できず、相手が自分を憎んでおり攻撃してくるのではないかと思い恐れる、自分が性的な欲望を感じている異性に対し、相手が自分に情欲を感じていると思い、「誘惑されている」と感じたりする。自分が抑圧している嫌な部分や性格を他人が持っているとき、その他者を嫌悪することで、抑圧しているストレスを解消する。また、それを嫌悪によって解消せずに、満足することで、つまり他人の満足を自分の満足に同一視することでストレスを解消するといったような投影と同一視の組み合わせパターンもある(下の例)。たとえば、自分が結婚することに良心の呵責を感じていた若い女が、自分の妹が婚約するように、全力をつくす場合。自分のために少しでも金を使うことを強迫的制止せざるをえなかったある女の患者は、プレゼントを買うときには、ためらうことなく浪費した。不安のために自分の旅行計画を実行することのできなかったある女の患者は、全く予想に反して、おしつけがましく友達に旅行するようにすすめるのであった。これらの心理現象は、スポーツの観戦や賭博の見物人にも通じるところがある

b-5-例 愛他的譲渡――投影と同一視
小さい頃に父親から厳格にしつけられたある女性は、のちに超自我の強い大人になった。超自我は、男性的野心の空想をともなっている彼女の男根羨望、女性らしく子どもをもちたいという願望、裸になったり、きれいな着物をきたりして父親からほめてもらいたいという願望などを、彼女が幼児の頃からずっと禁じていた。だから彼女は表面的には、でしゃばらない性格で、着ているものはみすぼらしく、他人をうらやむ様子もなく、人生に大きすぎるほどの欲望をかけていないようにみえた。しかし彼女が普通の人と変わっていた点に、女友達や仕事仲間の愛情生活に強い関心を示したり、友達の服装にはいきいきとした関心を示したり、他人の子どものために献身的になるということがあった。/彼女は、超自我が自分の願望には死刑の宣言をくだし、他人の衝動に対しては驚くほど寛容であることを心の底で知っていた。彼女は、どんな願望でもそれを代理して満足させてくれるような人を見つけだした。彼女は自分に禁じられている衝動興奮を他人に投影したのである。彼女は代理者の願望に対しては理解ある態度を示し、代理者との間に強い結びつきがあると感じていた。彼女は他人の満足のわけ前をもらって、自分の願望を満足させていたのである。そしてこれは、投影と同一視によって可能なものとなった。衝動が禁じられていたために生じていた、慎み深い彼女の態度は、その態度だけについていえば、他人が彼女の投影していた願望を代って満足させてくれそうになくなると、慎み深い態度はなくなり、強引な態度となった。彼女が他人に自分自身の衝動を譲り渡していたのは、このように利己的な意味をもつものであった。しかし、他人の衝動を満足させようと努力している点だけから考えれば、彼女の行動は愛他的と呼ぶことができるだろう――しかしそれは表面的な見方である

彼女の場合、このように自分の願望との区別がなかったが、このことは彼女の生活ではいつもおきていたことである。ちょっとした出来事を分析しても非常に明確にこのことがあらわれている。たとえば、彼女は十三歳のとき、姉の男友達と密かに恋をした。その姉というのは、以前には彼女の激しい嫉妬の対象になっていた。彼女はその頃、彼が姉より自分を愛していると考えていた。そして、彼が自分を愛しているのだ、という証拠をつかみたいと願っていた。以前にもよくあったことであるが、あるとき、彼女は自分が彼から無視されていることを思い知らされた。突然ある夜、この若い男は彼女の姉を散歩にさそった。彼女はそのとき、失望のため体中が麻痺したかのように感じた。しかし、このとき突然、彼女は姉の外出のために、姉を「きれい」にしてやりたいと思い、大騒ぎして奔走し、その準備を熱心に手だすけした。こうしているとき、彼女はこの上もなく幸福であった。楽しみにでかけるのが自分でなく、姉であるということも全く忘れてしまっていた。彼女は自分の愛の願望と賞讃の熱望を自分の敵に投影した。羨望の対象である姉と自分を同一視して、彼女は願望の満足を味わった。超自我は自分の衝動に対して苛酷な態度をとるのであるが、自分自身の自我が関与していないときは願望に対して寛大になる。他人の願望を満足させようとするときに、いつもは制止されている攻撃的態度も突然に制止をとかれ、許容される

願望の満足だけでなく、反対に不満が問題になるときにも、同じような出来事はおこる。彼女は自分の預かっている子どもに美味いものをやるのがすきだった。あるとき、母親が子どもにうまいものがあるのに、ほんの一口もあたえようとしなかったことがあった。彼女は一般に、食べものについてはかれこれいう方ではなかったが、母親が子どもにうまい物を与えなかったのをみて、非常に憤激した。彼女は子どもの不満があたかも自分の不満であるかのように感じた。これは、姉の満足を自分の満足のように喜ぶ場合と同じことである。彼女が他人に譲り渡したものは、妨げられることなく満足されるべきである、ということであることは明らかである

b-6 合理化

手に入れたくてたまらないのに、人・物・地位・階級など、努力しても手が届かない対象がある場合、その対象を価値がない・低級で自分にふさわしくないものとみてあきらめ、心の平安を得る。満たされなかった欲求に対して、理論化して考えることにより自分を納得させること。イソップ寓話「すっぱい葡萄」が例として有名。狐は木になる葡萄を取ろうとするが、上の葡萄が届かないため、「届かない位置にあるのはすっぱい葡萄」だと口実をつける

b-6-a 好悪の合理化
好ましくないことは正しくないことと思ったり、好きなこと・楽しいことは正しいことだと思い込む合理化。前者は比較的よくみられるが、後者は一概にはそういえないところもある。楽しいことをしているときは、それととともに、自分は遊んでいていいのだろうかと後ろめたいいやな気持ちが芽生えていて、そのいやな気持ちを味わわないために、何かしらの正当化理由によって補償するような心的活動がみられる。しかしこの補償行為は後ろめたさの不快な感情を、あくまで意識的に補償づけるものなので、これを防衛機制の一種とは言えない。だとするならば意識に補償されるその後ろめたい感情、すなわち自己の社会的成長あるいは人間的成長にこれは資する一環ではないと感じる感情や、他人の不幸を尻目に自分だけが幸福に歓喜することに対する間接的な罪悪感などは、なにものかというと、よく分からないのだが、しかしその感情の因子に道徳的倫理観の警告をする超自我が参与していることは確かだとわかる。これが超自我のはたらきであって、しかしそれは無意識でのはたらきでもあるのではないかという議論、私が現時点でいえることは、この議論は超自我と無意識の区別に関する定義づけにすぎないのであって、けして、すでに完全別個の超自我と無意識がお互いの主張を叫びあうゲームではないということだ。その定義づけとは「超自我と無意識の違い(そもそも超自我のはたらきを無意識のはたらきと区別する意義はなにか)」と「そのはたらきの原因の主を超自我のはたらきとするか、無意識のはたらきとするか」に関することである。それでも、好きなこと・楽しいことを正しいことだと正当化するはたらきがあるのは確かだから、この正当化のメカニズムについてあれこれ考えることは有益なはずだ

b-7 抑圧

痛ましいあるいは危険な考えが意識に上がってくることを阻止する。フロイトはこの「抑圧」が最も基本的な防衛機制と考えた。抑圧は意識より深い心の深部(前意識や無意識)にまで押し込められてしまう。そのため基本的には思い出せなくなってしまう。思い出すには努力が必要であり、それほど悪い観念でなければ簡単に思い出せるが(意識化)、強い抑圧は無意識にまで押しやられているので思い出すのは困難である。その代表例としては赤ちゃんの頃の記憶などがある

b-7-例 補償、同一視、合理化
思い込みの原因の一つとして考えられるのが、自分の本当の感情に気づきたくないときにその感情を抑圧するために他の何かを補償する場合がある。自分の本当の感情に気づきたくないとき、自分の中に否定的な感情(うらみ、怒り、おそれなど)が出てきて持て余すと、お金とかギャンブルとか異性とか何か他のことでマヒさせようとする。これが補償である。また否定的な感情ではなくても、信じて疑わないほどのある感情を肯定するために、その理由づけとして他の物事や考え方と結びつける場合もある[同一視]。例えば身近な依存症としてsexを例に挙げてみよう。sexに対する本当の感情が、sexは子孫を残すための行為であり、子孫繁栄は生き物の本能であるとする。するとその考えを正当化するためにsexが気持ちいいということと結びつけ、sexはほんとうにやるべきこと(本能)であるから気持ちいいのだ、と同一視する。逆にsexに対して否定的な感情を持っていたとしたら、sexは本能ではないからする必要がない、sexは本当は不潔なだけだ、sexはただ一時の空虚な欲埋めに過ぎない、などと考える。これが同一視あるいは合理化である。つまり人は、本当の感情に気づきたくないと思い、無意識に肯定的あるいは否定的な感情を生み出し、そう思い込んでいるということになる

b-8 分裂

対象や自己に対しての良いイメージ・悪いイメージを別のものとして隔離すること。良い部分が悪い部分によって汚染、破壊されるという被害的な不安があり、両者を分裂させ、分けることで良い部分を守ろうとする。抑圧が「臭いものにフタをする」のに対し、分裂は「それぞれ別の箱に入れて」しまう。分裂させた自己の悪い部分は、しばしば相手の中に「投影」される。スプリッティング(スプリット)ともいう

b-8-a 分離[孤立]
痛ましい場面から感情を断絶したり、両立し難い態度を厳格な区切りで分離してしまう。たとえば、思考と感情、または感情と行動が切り離されていること。おかしな行為だと自分では気づいているがその行為が止められない、ある種の強迫行為と関わっていると考えられている

b-9 反動形成[自己欺瞞]

逆の態度や行動の型を誇張し、それを障壁とすることによって危険な願望が表出されることを防ぐ。本心と裏腹なことを言ったり、その思いと正反対の行動をとる。たとえば、好きな異性に対して、無関心を装ったり、逆に意地悪な態度に出る、など。憎んでいるのに愛していると思い込んだり、愛他主義の背後に実は利己心があったりと、性格として固定されることも多い。また、嫌な感情のときほど、それがさとられないように、相手に対してよく笑うというのも反動形成の一例である

b-9-例 ある性格が表れているのは、単にその欲求があるか、本当は反対だと思っている自分の性格を抑圧して出た結果かどちらかである。例えば、傲慢な人は、心の底では自分を低く評価しているがそのことが不快で受け入れられないため、それを隠そうとして抑圧した結果の場合がある

b-9-a 打ち消し[取り消し]
罪悪感や恥の感情を呼び起こす行為をした後で、それを打ち消すような類似の、またはそれとは逆の行動を取ること

b-10 転置

しまっておいた感情(ふつう敵意のある)を、もともとその情動をひきおこしたものよりも危険でないものを対象にして吐き出す

b-11 退行

耐え難い事態に直面したとき、現在の自分より幼い時期の発達段階に戻ること。不安な時に他人の話を鵜呑みにしやすくなったりするのも退行の一種だが、これは「取り入れ」をよく用いる発達段階に戻ったことでおこる現象である

b-11-a 情動分離
傷つくことから自己を守るために受動状態にひっこんでしまう

b-12 昇華

反社会的な欲求や感情(充たされない性的願望など)を、代償の性的でない行動でもって置き換えて充たす。社会的にも個人的にも許されず、また、非難を受けるような行動の動機となる欲動を、社会的に許されるばかりではなく、ときには賞讃をも期待できるものに変容してゆく働き。心的メカニズムまたは防衛のメカニズムのうち、病気の原因となることのほとんどない唯一のもの

b-12-a 置き換え
欲求を本来のものとは別の対象に置き換えることで充足すること

b-13 自己への向き換え[自虐]

相手に向けている感情を、自分自身に向き換えること。攻撃とは逆で、本当は相手が悪いと思っている人が、それを意識できずに自分自身を責め、抑うつ的になる場合などは典型例である

A・フロイトの言葉

「自我がエスによって完全に圧倒されないかぎり、エスと自我の関係は、むしろ反対に考えたほうがよい。すなわち、衝動の要求が強化されると、それにつれて、衝動に対する自我抵抗も強くなり、その自我抵抗によって症状や制止などがはっきりとあらわれる。他方、衝動の要求が減退してくると、それだけ自我も柔軟性をもつようになり、衝動は満足されやすくなってくる」<A・フロイト>


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