人によっては、まったく夢をみないと主張する人がいる。しかし、それは夢を覚えているか覚えていないかの違いであって、生理学的にいっても一晩に三~四回の夢をみている。フロイトは、人の記憶のなかで、現実にあってほしいと願う気持ちが夢となって表現されるのだと述べた。これに対するユングの見解は、人の精神性を補償するのが夢だと述べた。もともと人は自然の一部。ところが覚醒のときには、意識を保ち、社会規範にしたがって生きることを余儀なくされている。本当は束縛されずに自然体で暮らしたいと思っている。そこで夢を見ることで、人は全体性を取り戻そうとするのだ。夢で精神性のバランスを取り戻す、というのは深層心理学的にあながち的外れではないようだ

関連:“カール・グスタフ・ユング書付”“ジークムント・フロイト書付”

眠りと覚醒の中間状態

夢を見るということは眠っている間の心的活動を指す。一方、醒めているときの心的活動は、空想、あるいはボーッとしている状態を指す。この両者の違いは、醒めているときの心的活動が能動的であるのに対して、夢をみているときでは完全に受動的なこと。たとえば、夢を見ていて、あまりにも衝撃の強い夢だと覚めてしまったりした経験は誰もがあるでしょう。あるいは目覚まし時計が鳴ると、その瞬間、その音と夢のストーリーとがつながって、夢をみていたことに気づかされたりする。これと反対に、醒めているときは気を入れれば集中して意識を覚醒させることができるが、気を抜けば容易に空想の世界に耽ることができる。そして両者に類似しているのは、眠りと覚醒の中間状態であるという点。こうしてみると眠りと覚醒の境界はとても曖昧だということがわかる

夢の素材

フロイトは、水を飲んでいる夢を例にして、その素材について次のように説明している。人が睡眠中に、喉の渇きを覚えたとする。そこで、目を覚まして水を飲みたいという刺激に対して、眠りを保持するために水を飲む夢を見るということ。これに対してユングのいう夢の素材とは、無意識の内容そのものに力点が置かれている。水を飲む夢の例でいえば、水と杯を聖なるものとみなし、宗教的儀式のイメージへと素材を膨らませてみたりする。その水と杯(夢の素材)と宗教的儀式のイメージとの関与が強ければ人は印象的な夢を見ることになる。ユングはその無意識の内容のメッセージについて、元型(“カール・グスタフ・ユング書付”)の概念を提出している。無意識の内容自体は、いってみれば電流のようなもの。電流は目には見えず、大きさや形があるわけではない。しかし、プラグにつなぐことで、電球がついたり、テレビが見えたり、熱源になったりする。原型とは、この場合の電気製品にあたるもの。この元型にはいくつかの種類がある。主なものをあげると「アニマ」は男性の無意識のなかにある女性的性質を、「アニムス」は女性の無意識のなかにある男性的性質を、それぞれ擬人化したもの。この元型が夢に登場するときは、夢を見ている人と反対の性になる。また、「影」の元型は夢を見た人と同性の人物として登場する。影は人格の劣等部分であり、自分が意識している性質(たとえば几帳面、穏やか)とは反対の性格をもった登場人物で表わされる

死の夢

人が死ぬと夢枕に立つという。また親しい人が亡くなると、しばらくはその人の夢をみることが多くなるという経験をした人もいるでしょう。人の死という衝撃的な体験は、すぐに自我のなかに取りこむにはあまりにも大きすぎるのだ。そこで、何度も夢に現われて、意識のなかにすんなり納まるように協力してくれているのだ。時の経過とともにその人の夢をあまりみなくなるのは、忘却するというよりもむしろ、心の整理がつくからだと考えられている。思春期に入った子どもは、親を殺す夢をよくみる。それは、児童期のころには権威的で、しかも自分の前に立ちはだかる存在だった親を殺すことで、子どもなりに自立への道を歩みはじめる兆候であるとされている


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