温泉での出来事

※2012年5月頃の記事
――

私の場合温泉では、温度で場所にもよるけど平均ではサウナのあと水風呂には15秒程度しか浸からない

だがしかし、私が水風呂の横の温泉に入っていたとき、横には水風呂にほぼ満腔つかったオッサンが

なんだこいつ…そう思ったが、特になにもせず、

5分ほど経って私はさあミストにでも行こうかと思って体を浮かしかけたその時、私の視界にははっきりと写っていた

あいつがまだいる

「一体どういうことだ。17C゜程度の水風呂に5分以上も居座るとはよもや凡人では考えられない。全くもってありえないぞ」

しかし私は、彼が水風呂から出るときにすべてを悟った

彼は、デブだったのだ・・・

 


 

↓原文↓

私の場合温泉では、温度で場所にもよるけど平均ではサウナ6分のあと水風呂15秒、のあと露天で仰向け静穏、体の芯までファイアーの残党を放逐するまで、およそ20分

だがしかし、私が水風呂の横の温泉でおもむろにくつろいでいると横には水風呂にほぼ満腔つかったオッサンが

なんだこいつ…この時は何も気がかりではなかった

がしかし、5分ほど経って私はさあミストにでも行こうかと思って体を浮かしかけたその時、私の視界にははっきりと写っていた

あいつがまだいる

脳がつじつま合わせに奔走し、その結果を脊髄に通達するまでにおよそ10秒はかかった

「一体どういうことだ。17C゜程度の水風呂に5分以上も居座るとはよもや凡人では考えられない。いくらサウナ帰りの猛者でもそれは不可能なことだ。しかしありえないと思っていることが現実に今目の前で起こっている。さあどのように処理すればいい。どのように現実に起こっている虚構みたいな出来事を自分なりに都合よく解釈できるのか。まず考えられることとしては前提を疑うことだ。前提が正しくなければ、導き出される答えも正しくはない。今回の場合、大綱前提となるのはいくつかある。まずは彼(以後名状し難きもの)が人間ではないという前提条件だ。人間と同じではない科学構造を有している”それ”だ。外見上は人間であるからにして元は人間だったのがなにかしらの外的刺激によって、物質を組み立てている分子および原子の結合・配置などが科学変化した可能性はすべからく高い。だがもしそうだとしたら神経系や筋肉、臓器の生命機能そして下垂体などにも不具合の影響は少なからず出るはずだ。目にみえる行動にも不逞的な立ち振る舞いはあってしかりだ。しかしそこにいる名状し難きものは全くもって外見上は普通のオッサンだ。どう見ようともやはりオッサンだ。間違いない。そして気にしていた立ち振る舞いもなんとも静謐を見事に保っていた。となるともう一つの筋、つまり名状し難きものは地球外知性体であるという道だ。これならば縹渺とした世界観、想像力そして、先入観排除に堪能したオカルト的思考あるいは科学の超越的形態に委託することができる。まったくもって利口な選択といえる。あるいは私自身の問題もあるだろう。目で見る景色と、脳で見る景色では違うという。私の脳が久々の温泉という非日常的なシーンを順化するための処理が追いつかなかったために脳に不具合が生じたり、視神経が雷のごとき啓発を打たれたかのように別の認識をしてしまう症状がすでに現れていたのかもしれない。実際そうなんだが。またこれも地球外知性体または超越的観測者の改変によるものだという可能性は否定できないだろう。他にもたくさん道はあるが、時空の説明に4次元空間ミンコフスキー時空あたりを代表格にもってくるように、まさに代表格と言えるものを挙げていく。名状し難きものが超人であるという選択肢。またはなにかしらの患いがあるという選択肢。アノマリーは正常なものでは考えられないまたは不可能なことを平然とやってのける特異な属性があったりするものだ。ゆえに病気や異常と呼ばれる。どうやらこれは避けられない運命のようだ。しかし科学発展人類繁栄の観点からではこのようにアノマリーを特別視するためにパーティションすることは非常に利があるといえる。このようなモラルパニックは科学に助長している。非があれば是があり、優があれば劣があるのは属性や情報の基幹であり、BIOSなのだ。さて、最後の代表格だ。彼は死んでいる。または失神しているでもいい。このような顛末は本来私も考えたくないことだ。最悪の結末は誰だって考えたくはない。だが脳をよぎるときはいつだってこういうときだ。やつは忘れたころにやってくる。まさにその突発的な出来事は最悪と言わしめるゆえんたるゆえんにほかならない。突然の悲しみはつらいものだ。最悪の事態が前もって予期できているならいくらか悲しみも軽減される。そういうものだ。そのように人間はできている。だから、生き続けるつもりがあるなら、いつでも最悪の可能性を念頭に置いておいたほうがよい。それは別に私がペシミストだからではない。起こりうる最悪の可能性は、起こりうる最良の可能性よりも発生確率が高いのだ。なぜなら、最良の条件は個人の主観によって決定されるが、最悪の状態は万人に共通するものだからである。つまり、それが死だ。別の場合もある。オプチミストは人生をおいしく渡っているように見えるが、喜劇と悲劇は若干の誤差はあるものの万人に訪れるものだ。近似値ということで目をつむることに私はしているが、それはもうほとんど無意識の想念のようなものなのだ。つまりオプチミズムはそれだけで厭世的な属性の類であるということに他ならないのだ」

とまあこんなことを大まかに10秒ほど脳内思考しながら私は再びその浮かしかけた腰を湯舟に下ろした

つまり、彼の正体を見極めようと思ったのだ

そして幸いなことに、この一連の事の顛末はすぐに知らされることとなる

私が再び臨戦態勢に入ってからまもなく1分ほどで、彼は自らの体駆を動かした

やけに潤滑な動作だったと記憶に残っている

そして彼が立ち上がってその全身をあらわにしたとき、私はすべてを理解した

彼は、デブだったのだ・・・


情想 目次

  • Pocket
  • LINEで送る
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

コメントを残す




Menu

HOME

TOP