遡行⇔思考[積み立て]
前提各種:“情憶”、視点、意思
●0/思考学
思考の属性
人間が思考を使ってなにをなし得るかに注目して思考の属性とする。
(1) 判断と決定の属性
決定までの過程には「知る」「信じる」「決定する」の三つのプロセスがある。判断するとは信じるということである。
(2) 学習と仮定の属性
学習と仮定の属性は理論、意見、感情(喜怒哀楽、期待と不安)、情憶を生み出す。ただし生理的な感情は別である。
これは記憶と思考の働きである。思考は一度思考した結果を次回の前提として、すなわち自身の結果を踏み台とすることで、思考するごとに、より効率よく具体的な結果を生み出してゆく。たとえばAとBを表わすのに、最初は「AとB」というようにそれぞれ述べてみなければ意味が理解できないものだが、「AとB」を意味する言葉として“X”を与えれば、その定義づけにしたがって、次回から「AとB」を「X」で簡便に表わせるようになる。今度は「AとBとC」を表わすのにわざわざ「AとBとC」と言う必要はなく、「XとC」というように効率よく記述もすむ。また読者のほうも段階的に理解する上では簡便であるほど都合がよいので、さしずめ利害の一致といったところだ。このような学習と仮定はまさに前提の核である。すなわち、段階的な理解や段階的な思考のそれは、いわゆる「前提の積み立て」にほかならない。
(3) 知能のBIOS
人間の高い知能は、思考による学習とそれを記憶すること、すなわち反復学習の賜物である。一方で、思考の性質を思考以外の方法によって知ることはできない。思考は私たちが五感で感じるもの、想像できるもの全てをその対象にする。私たちにとって思考できないものはない。しかしこれは同時に次のような別の言い方にもできる。私たちは思考できないものを知らない――(命題とはいつもこういうものである)。私たちは思考という名の自由に縛られている。
視点
/a 視点を意識する
私たちは思考をするとき「前提」を用いる。それは複数の前提からなる形式である。その前提の一つに「視点」と呼ばれるものがある。視点とは物事を見る観点、すなわち思考の枠組みのこと。思考をするには必ず視点が必要になる。別の意味に言い換えるなら、ある一つの思考はそのとき設定された視点の中でのみ行われるということである。
今行われている思考に設定されている視点を意識するならば、別の視点の存在を認知することもでき、任意に視点を切り替えることもできる。前提について意識したり前提を作り変えたりするときは、メタ思考が達成されている状態である。/考え方など無限にある。複数の視点の存在を意識し、それらを任意に切り替えることができるだけで思考の幅はぐんと広がる。
「物事をどう見るかによって物事は変わる」。あらゆるケースに適用するルールなどない。重要とすべきは視点を意識できるかにある。視点を理解するということはすなわち前提を把握するということであり、「このケースにおいて私はこう考える」のをはっきりと自覚し思考の正規化を図ることである。お互いが同じ議論をしているようにみえて実はお互いの視点が若干ずれており、これに気づかぬまま何が正しいのかを競い合うほど無意味な議論はない。しかしこれが常態化しているのが今の世の中である。
思考はいつも何かについての思考である。思考や感情が必ず視点[志向性]をもつという事実は、一方で特に意思の疎通が必要となる相互コミュニケーションの場において、同じ論点で議論をしているはずなのにお互いの視点に若干のズレが生じるというような側面も映し出す。こういった視点のズレは前提の共通認識が乏しいとついつい起きてしまいがちだが、私たちが普段から内省の習慣を持ち合わせ、諸前提を立ち戻って確認し、視点の一致を目指そうとすれば、このずれのほどは首尾よく意識化されるに違いない。
意思
意思があるとは、“ある目的への強い意識がある”と言い換えることができる。炊飯器のスイッチを押したいとき私たちはどうすればよいか考えるが、このとき“炊飯器のスイッチを押したい”という一つの意思の元で思考が行われている。あるテーマについて思案するときも、頭に浮かんだ“?”の疑問を解消するためである。浮かんでは消え消えては浮かんでくる由無し事も、思考することを選択した意思がすでにある。私たちの思考は、常に意思の上で行われる。
/a 意思と錯覚
またこの意思の働きが無意識下で行われる分野では、パレイドリアに代表される「錯覚」と密接に関係してくることになる。パレイドリアは、ただのでこぼこの壁がふとまだら模様や何らかの形に見える現象に代表されるように、脳が視覚刺激や聴覚刺激を受けとり、普段からよく知ったパターンを本来そこに存在しないにもかかわらず心に思い浮かべる無意識の心的作用を指す。私たちがパレイドリアの錯覚を起こすとき、意識の反復によって強く根深く強化された情憶が脳の補完認識に使われている。
/b 期待とカラーバス効果
意思の主な働きの一つに「期待」がある。期待は情憶+意思からなるもので、あれを見たい、これを知りたい、こうなるはずだ、こうであってほしいといった心の働きを指す。朝の占いでラッキーカラーが赤だと言われた人は、街中で赤色の物にばかり目が行ってしまう。自分がこれを見たいと思ったら本当にそれっぽく見える心理を「カラーバス効果」という。意思の働きに属する期待やカラーバス効果にも、あるものを“強く意識する”という共通の性質が見られる。
私たちは、強く意識していることほどそれに関係する情報を多く取り入れる。赤色を好きな人が街中を歩いているとよく赤色を目にする。歯を白く美しく保つのがモットーの人は、対面する相手の歯に自然と目が行ってしまう。人は見たいものを見て、無関心なものにはあまり意識が向かない。多くの話し声が飛び交う雑多な人工空間の中において、人はある程度聞き取りたい声を選び取って聞くことができる。それは私たちが聞き取りたい声に意識を集中させていて、脳の処理がそれに準じた働きをしてくれているからだと考えられる。
b-1 「信じる」の核となる無意識的期待
倫理観、理性、理論、感情、価値観、その他知的な精神活動を行う中で、期待としての情憶が常に無意識の中に存在している。期待とは、物事がこうであってほしい、こうであるはずだという願望。したがってそのように考えてしまうし、それが意識や考え方の基底になっている。しかし一方で私たちは自分の理論や価値観と、直面する現実世界との辻褄を合わせることに奔走している。そこでもし自分の価値観に見合わぬ現実に直面すると、人はストレスを発生させる。こうして人は自分の理論や価値観を現実からフィードバックさせ、またこれを繰り返すことによって、現実に合わせて期待の安定を図っている。
同一化
同一化[同一視]とは、一つの視点における感情を別の視点に転移すること。この意味は独自に定義したものになる。
深層心理学における本来の同一化[同一視]の意味は、自分にない名声や権威に自分を近づけることによって自分を高めようとすること、他者の状況などを自分のことのように思うこと――この同一視は他人から他人へ伝染する。
/a 能動的な関連性作り
例えば類似性の高い物事には同一化がよく見られる。似ている顔をしているからといって同じプレーができるとはかぎらない。同じ事をするともかぎらない。それでも私たちは同じ事ができるのではないかという期待をもつ。これは外形形態と関係形式(“形式”)における印象形成の基礎の一つである。この印象形成の心的作用は、「人は関連性の高い二つの物事に対しては、ほかにも共通する点があるはずだと思い込むことがある」というものである。一方、同一化の心的作用とはどんなものか。原理的には同一化の心的作用もこれに同じで、関連性の高いもの同士の共通点を見つけだそうという意思もみられる。ただ多くの同一化にはこの順序が逆のパターンがあり、最初は関連がないものに対して強制的に共通点を配置する“能動的な関連性作り”が見られる。ここで重要なのは、関連がないものを関連付けるという矛盾を作り出した心的作用に対しての自覚が本人にないことである。
/b 同一化の例
(b-例1) ニュースの内容とニュースの信ぴょう性の同一化
私たちは自分に便益のあるニュースだったとするととたんにそのニュースの信憑性を高めてしまう癖がある。この便益とは、たとえばAの国に敵対するB国の体面を損なうニュースは、A国の人たちにとって便益であるというようなニュアンスに近い。
B国のあるスポーツ選手の賞金のほとんどが、所属するスポーツ連盟に搾取されていたというニュースが報道された。このニュースはB国の名誉や信頼が毀損することを間接的に示すものであるから、A国にとってこのニュースは便益があるとし、なればA国民はこれを信じてやまないことだろう。一方のB国民はまずこのニュースが流れたこと自体に動揺をおぼえつつも、ひとまずそれをとめおいて、ニュースの信憑性を疑いはじめる。信憑性を疑う理由ならなんでもよい、元ネタの信憑性、当のスポーツ選手本人が暴露したのか、ほとんど搾取というがほとんどとはどの程度か、そういった搾取されるような事はこのスポーツ選手に限りなのか、そして問いの意味を突き詰めるとこうなる――「じゃあA国のスポーツ選手はどうなんだ」。とりあえず彼らはこのような信憑性に対する嫌疑をもちかけて目の前でそれを並べ立てるのだが、その嫌疑のとうとうとあふれ出んばかりの豊富さに私たちはしばしば舌を巻く。しかし、思いのほかこの行為が正当に思えてしまうのは、確かにニュースの信憑性というものは、どんなニュースのものであれ、確実に問うべきものだからだ。その意味ではB国の人たちはなかなかうなずけるようなことをしているのだが、しかしA国民はというと、ぱっと見たところ、このニュースの信憑性を疑うひまを持ち合わせていない。その理由はほかならぬ、A国の人たちにとってこのニュースは自分たちの便益になっているからである。
これらの例から見えてくるのは、A国もB国もともに感情の同一化によって、自分たちの思うように、したいように物事を考えているということである。ここではニュースの内容とニュースの信憑性、この本来二つで別個になるはずの両者に対する思考に、同一の感情が影響を及ぼしている。感情の同一化とは、一方の視点における感情が、他の視点にもその感情がうつるというような感情の精神的伝染のこと。この同一化は、自分の都合の良いように物事を解釈してしまう人間特有の特徴の核である。A国民は自分たちの便益になるニュースであるかどうかの内容にかかわらず、中立的な立場からニュースの信憑性を考えることをはじめなければならない。
(b-例2) 内容とタイミングの同一化
小さい頃、私は母にあることを物申したときがあった。それに対して父は「今それを言うタイミングではない」と非難した。続いて父は「おまえが母に言ったことは間違っていたのだから、今すぐ謝りに行きなさい」と言った。私は違和感を覚えた。父はタイミングを誤ったことについて謝れと言っているのか、内容について謝れと言っているのか分からなかったからだ――その後私は父に問いかけたが結局分からないままに終わった。言うタイミングを間違った事実は、内容そのものが間違っているかどうかに言及されることではない。内容とタイミングはそれぞれ別個の視点である。
(b-例3) 話の内容と人物評価の同一化
ある議論で、彼が違う立場の多くの人たちに対して自分の意見を述べていたのだが、彼の主張する意見は、同じ立場の人たちだけにとどまらず違う立場の人や第三者にとっても、それは妥当でとても知的な意見だった。実際に議題をとりまく立場を問わず彼以外の聴衆の多くは、彼の言う意見には納得する素ぶりを見せていたことがそれを証明している。しかしいかんせん、彼は外国人だったため、違う立場の人たちのことを指すときに「こいつら」と見下すような名指し方で呼んでしまっていた。そこでそのような名指しを受けた反対側の立場の人たちだけは、周囲の彼に納得した反応とは異にして、反論しようと、仲間うちで競い合うように挙手の応酬が繰り広げられる否定の反応がみられたのだ。彼らもしかし、彼の話の内容には納得していたにもかかわらずである。話の内容に対する評価に、名指しによる見下された劣等感が転移して同一化を起こしたのである。
(b-例4) 同一化に類似する「合算」
ダイエットのためにいやな空腹感にさいなまれる苦しい生活を送っている人は、これにともなう辛さを他の社会生活の面にも同一化することが多い。このダイエットによる辛さを、ある人は仕事の辛さと結びつける。一方で失恋したとなれば、その失恋の悲しみと結びつけるかもしれない。このとき、私たちの中である物事の辛さと別の物事の辛さ悲しみを結びつける「合算」の心的作用が働いている。これは私たちが快楽原則にしたがって、いくつかの楽しさ嬉しみの合算といくつかの辛さ悲しみの合算を天秤にかけることで、今の自分が幸せかそうでないかを判断しようとするからである。心地良いか心地悪いかという快楽原則、この一つの視点に沿って私たちの楽しさ嬉しみが合算され、他方で辛さ悲しみが合算され、そして両者が天秤にかけられるのである。したがって、二つの視点、すなわちダイエットと仕事、この双方における感情がすでに確立されていて、一方の感情が一方の感情に影響を及ぼしているわけではないのかもしれないことを考えると、厳密にはこの「合算」を同一化であるとは言いがたい。このような同一化に類似する例が、比較になって相互理解を深めてくれる。
思考学/アグリゲーション
/a 安易に二極的結論に走らない
「私は科学者で、今日の科学は、特定の物体の存在を証明することができるが、特定の物体が存在しないことを証明することはできない。従って、私たちがある物体が存在することを証明できなくても、その物体が存在しないということを断定してはならない」
<アインシュタイン>
私はこれを知らない。しかし知らないからといってそれが存在していないと結論づけるわけにはいかない。
●1/前提学
前提学の核は、思考、すなわち“積み立て”である。
度重なる思考によって積み立てられた前提を省察することを「前提の遡行」という。前提の遡行、これによって私たちはどんな偉人の考えも、彼の言葉を読み解くだけで、その心を筒抜けにしてやることができる。
前提学とは
思考学の一種。前提学は思考の前提をさかのぼっていく、あるいは諸々の前提に目を向ける分野である。
/a 積まれた積み木を知る
思考するというのは前提を作ることであり、それはちょうど積み木を積み立てるのに似ている。自分がそれまで積んできた積み木を見返したことがあるだろうか。どんな積み木を積んでいたのか、知ろうとしたことがあっただろうか。どんどん積み木を積み立てていってしまう前に、“どんな積み木か”を省察するのが前提学である。
前提は下に行けば行くほど“自明の理”であるか、あるいはまったくそうではないかのどちらかである。しかしいずれにせよ、その積み木が正しいか正しくないかは、その積み木を見なければ分からない。そしてもし土台部分を担う積み木が正しくないものであったとき、その積み木を抜き取るとその上にある今まで積み上げてきた積み木がバラバラと崩れ落ちることになる。
もし私たちが今まで真実だと思って疑うこともしなかったことを捨てなければならないとき、はたしてそれをおいそれと捨て去ることができるか。それは自分の信念を一から疑うことができるか、というのと同じことである。
私にとっての前提学の核は「全ての事の土台にある思考、その思考とは何か」というものである。そしてこのテーマは、私の積み木の一番下に置けるということもこのとき知った。
/b 一つの物事は複数の前提から成り立っている
b-例1
「平和なことがまず何よりの幸せである」
幸せの前提は置いておくとして、まず平和が幸せであるというのは、平和がなぜ幸せなのかと問うた先に、まず平和とは何かという前提のドアの前に立つわけだが、この前提は多くの人にとってそうであるように、普遍的な前提[イデア]である。しかしイデアというものは、突き詰めるといつも曖昧である。真面目な前提の遡行ならこの曖昧さを許しはしないだろう。この“平和とは何か”という前提をクリアした次に、“なぜ平和は幸せなのか”あるいは“幸せとは何か”といった諸前提に相対することになるのである。この一つの例文がいくつかの前提から構成されていることが分かる。一つの物事は、複数の前提から成り立っている。
b-例2
「一家の父親はどんなことでもおこなうことができる」
これはフランスの格言である。この一文にも必ず前提がなければならない。
(前提1) 「どんなことでもおこなうことができる」と言わしめた一家の父親のステイタスはどのようなものか
(前提2) 「どんなこと」とは具体的にどの程度を意味しているのか
なんとは無しに当てはめておく前提[→仮定思考(“用語解説”)]でも、立派な“仮定”という前提である。
/c 思考と前提
思考と前提は密接な関係で結ばれている。どのような思考をするかは、どのような前提があるかにゆだねられる。思考回路を構成しているのは情憶という名の前提である。
思考において大切なのは、思想に賛成するとか反対するとかいうよりも、そこから何を考えることができるかである。ここに前提学を取り入れ、思考回路を分析する。意識的にこうすることで、思想だけでなく物事の考え方そのものにも意識を置くことができるようになる。アインシュタインは言った――「現代の教育学のようなたんなる知識の詰めこみなどではなく、教科書からは学べないようなことを考えるように頭をきたえるのが重要である」と。
前提の誤り
「前提が正しくなければ、導き出される答えも正しくはならない」
これは前提学における一つのトートロジーである。
【持つべき基本精神】
疑いを持つ
↓
信じることをやめる
↓
問いかけ続ける
/a 間違った前提の元では、正しい答えは導き出せない
ふと振り返って考えてみる。そう、想像したり認識したり考えたりするものは全て、思考を用いずには何ものも結実しなかったはずである。それはいかにも、私たち自身が一番よく知っている。もしたとえばだが、思考の概念が「憶測に頼って信じる」というようなものだとしたら、どんなに優秀な論理的思考も、倫理的道徳観も宗教も、その前提の上に立つ限り、ある意味で本当の真理というものを言い当てるようなことなどできない。ならば、この世界が本当はどんな世界かを知ること、本当の真理を知ること、自分を知ることをしたいと思ったならば、まずもってしなければならないのは、今自分が拠って立っている前提の遡行をするべきであると私は考える。間違ったことを改められるのは、最初から間違った道を進まないことではない。間違った道を進んでいることを遅ればせながらも理解できるかどうかである。
精神分析の始祖であるジークムント・フロイトは、リビドーの原動力はすべて性欲によるものであると提唱したあたりから内外問わず批判の嵐を浴びることになったが、しかし彼の言ったことが批判を浴びせる学者たちの思考の発展に資する思考因子となったことは事実である。気づくことができるというのはとても大事なことである。
間違った前提を作り出さないためにまず第一にできることは、安易に信じるのをやめること。
完全に一側面に傾く物事などない。正確な観取を得るには、まず自分の考えや感情をすぐ正当化しようとしないことが求められる。どれほど自分が信じたいことであっても、どれほどばかばかしいとあきれる人の意見であっても、結論を急がないこと。偏狭は犯してはならない。しかし自分だけの考えで構成される世界は、いつも心地良く、それでいて完璧である。しかしそこには、一番大事なものであるはずの“思考の柔軟性”が存在しない。
メタ認知
メタ認知とは、自分を客観的に見る意識のこと。自分の言動を省みる省察の点においてメタ認知は有用であり、意識的にでも獲得すべきものである。
「自分の価値観は人に押し付けるものではない」と言っている人がメタ認知に欠けていると、その人は“自分だってその価値観を人に押し付けている”ことに気づかぬままだ。
a メタ思考
メタ思考とは、思考についての思考をすること。思考学は思考について考えるので、これもメタ思考である。自分の考え方、あるいは前提や視点について考えることもメタ思考。本当の自己の姿を見ずに自己が何たるかを知ることはできない。
b メタメッセージ
メタメッセージとは言葉に表す前の意図そのものを指す。実際に発せられる言葉と、それに込められた意味は必ずしも一致するわけではない。
b-例 多くの場合、大人が子どもにお菓子をあげるとき、大人は“お菓子”を使って子どもの信頼を得ようしたり、何かしらの誘導を行うためのオペラント条件づけを行う意図がある。つまり、単にお腹が空いたから与えるというような直接的な「給餌」の意味ではなく、餌を使って誘導を行おうとする「餌付け」の意図があるということである。大人が子どもを誘拐しようとするときにお菓子で“釣る”といったことがあるのもこのためである。
コミュニケーションを行うときには、言葉に表れ出ない意図が常に含まれている。誘拐された子どもは“お菓子”という体現化されたメッセージから、相手の意図を読み取ることができなかった。相手が本当は何を伝えているのか――メタメッセージ――を考えることは、人間関係の面でも心理学の面でも有用なことである。
視点――対概念の共通命題の記述
「愚者と天才の違いといえば、天才には限度があるということだ」<アインシュタイン>
例文の構成過程について考えてみる。思考者が“愚者には限度がない”ことを感じたところから始まるのだが、まずこれが第一次の思考である。次に思考者は愚者に対置するもの、すなわち“天才”の概念を引き合いに出し、天才には限度があるかないかを確かめようとする第二次の思考に入る。ここで天才が思いつかれる理由は二つある。第一に“愚者”と“天才”が対置関係、すなわち対概念であり、同一カテゴリーにあること、第二に同一カテゴリーに属するものはどちらも同じ視点によって測られるべきとするアブダクションの法則である。この第二次のはたらきによって愚者の概念を思考する道具になっていた“限度”という視点が、天才の概念に対してもあてがわれることになった。そして、愚者と天才の概念を“限度があるかないか”で考えるようになった。この“限度があるかないか”という視点がこの例文の視点を構成している。
このように、対概念が引き合いに出され、それが一つの同じ視点によって定義付けられるような命題の場合、その視点作りの過程にアブダクションシステム[関係の抜き出しと応用]が働いていることが分かる。
コミュニケーションにおける前提の不一致
「心は脳だ」
相互コミュニケーションの場における、ユニラテラルではない、語り側―聴衆の両者における前提の不一致はどんな齟齬を生むのか。「心は脳だ」に反論する人はこう言う――「心は脳だ、という結論だが、これはばかげている。なぜなら、脳には大きさも重さもあるが、思考にはどちらもないからだ」。このように言う人を単なるカテゴリー錯誤の明文化として片づける前に、少しばかりひっかかるところがある。この両者のやり取りを見るに、語り側の“脳”の前提がはっきり示されない限り、議論としては意味を成さない――オフラインで思索にふけるというのであれば話は別だが。実際、語り側の言う“脳”とは、反論する人の言うように物理的な実体としての意味で言っているのか、はたまた心と脳のエコロジーを論旨とする形式的作用の意味で言っているのかは、この短い語り――「心は脳だ」――からは探り得ない。だとすると、反論する人の述べていることは妥当な反論であるとは言えなくなる。もし両者が両者の間でもっと議論を煮詰めて溶かしこみたいと願うなら、まず前提の一致を目指さなくては、実現できるものもできなくなる。
――
日常でよくある例が<人―メッセージ―人>といういわゆる会話の場面におけるコンテクストである。
AさんがBさんに対して「今日はもう帰られるんですか?」と尋ねた。Aさんは「今日は特に仕事が早いですね。私もBさんのようにデキる男になりたいものです」という意味合いで言ったつもりだったが、尋ねられたBさんは「俺が早く帰るのを良く思ってないんじゃないだろうか」と思うかもしれない。このように、一つの発せられる言葉の裡にその人が持っているメタメッセージがあることを理解しつつ、例えば自分自身について、自分にはどういう意図があり、この言葉に対してどんな意味を抱いているのかを分析することで、自分でも気づかなかった相手との関係や言葉に対して持っている偏重に気づくきっかけになるだろう。