目次
個人的無意識と普遍的無意識
ユングによる深層心理の考察。ユングはフロイトと親交があり、互いに影響しあった間柄だったが、その後、独自の分析心理学を打ち立てた人である。精神を意識と無意識に区別し、無意識を重要視する点ではフロイトと同じ立場だが、無意識の内容についてはフロイトを超えたまったく新しい考えを提唱した。ユングはまず、無意識をさらに個人的無意識と普遍的無意識の二つに分けた
/a 個人的無意識
個人的無意識とは、個人の経験から生じたものである。第一に、意識内容が強度を失って忘れられたか、意識がそれを抑圧した内容(主としてコンプレックスを形成している)で成り立っている。第二に、意識に達するほどの強さをもっていないが、何らかの方法で心のうちに残された感覚的な痕跡の内容から成り立っている
/b 普遍的無意識
普遍的無意識とは、個人的に獲得されたものではなく、もっぱら遺伝的に引き継がれた心的内容のことで、一度も意識されたことがない、表象可能性の遺産として個人の心の真の基礎となっているものである。この普遍的無意識は、元型によって構成されている。元型とは、心にはいくつもの特定の形式があるということを意味する。たとえば、普遍的無意識のなかには母親の潜在的イメージ[元型]が存在する。赤ちゃんが初めて自分の母親を知覚したとき、このイメージが現実の母親に反応することによって、赤ちゃんの母親像として明確な形を取るようになる。つまり、元型は間接的にしか意識化されないのに、それでいて意識の内容にしっかりとした形式を与えるものだといえる
/c 元型
元型[アーキタイプ]は遺伝的に受け継がれた心的内容であるが、それ自体は無意識的な表象可能態であり、それが個人によって意識化されるときには、その内容をキャッチする個人の意義づけにしたがって変形してしまう。ちなみに表象とは、直感的に心に浮かぶ像のことである。ユングによれば、元型は人生の典型的な場面(出産、母の役割、結婚、別れ、死などの普遍的な生活経験)と同じ数だけ存在するという。たとえば、私たちの人格を形づくっている元型として、ペルソナ、アニマ、アニムス、影などがあげられる。人間は誰しも社会に適応するため、世界に向けた外面的な顔、“ペルソナ”をもっている。それに対して、精神の内面的な顔、アニマとアニムスがある。アニマは男性における女性的側面であり、また男性のなかの永遠の女性像でもある。アニムスは女性における男性的側面であり、女性のなかの永遠の男性像でもある。たとえば、男性にとって初恋の女性(少女)にはアニマ像が投影される。だから、初恋の女性は誰であろうとつねに永遠なのだ。また、人間は社会にうまく適応し社会の人々と調和的関係を保つために、人格の認め難い側面や劣等で無価値な側面を、ペルソナの奥に潜ませている。そのような、社会のなかで生きられなかった側面、それが“影(シャドウ)”と呼ばれるものである
c-1 ペルソナ
人が生きるためには、社会環境に適応し、他人と折り合いよく社会生活を営んでいくことが必要である。しかし今や、社会生活の基本は、自分自身が好むと好まざるとにかかわらず、社会の人々が期待するような役割を演じるという側面が濃厚である。そのような役割を演じているのは私たちの人格の外面であり、いわば社会に向けてつけられた仮面ともいえる。ユングはこれをペルソナと呼んだ。男であること、女であること、母親であること父親であること、職業人であること、学生であることなど、これらはみな、個人のペルソナの現われである。しかし、このペルソナには落とし穴がある。社会の要請に応じることに汲々[きゅうきゅう]とするあまり、人は自分の演じている役割に囚われ、ペルソナの過剰適応の状態に陥ってしまう。これをペルソナの膨張という。ペルソナの膨張は、自分をペルソナと同一化しすぎてしまった状態である。そうなると、人格のほかの側面、自分らしい側面は表面上押しのけられ、未発達なまま無意識のうちに残存し、一方、発達しすぎてしまったペルソナとの間には接触がなくなってしまう。亀裂の入った二つの側面の間に緊張をたたえたまま、統合性に欠けた人格を形成してしまうのである
もう一度はじめから。その仮面は、一方で、他者にある一定の印象を与えることをもくろみ、他方で、個人の真の性質を隠すことをねらっている。後者の働きが余計だと主張するのは、自分自身がもはやわからなくなるほどに、自らのペルソナと同一化している者だけであり、前者の働きが不必要であると思い込むのは、自分の仲間たちの本当の性質に対して無意識的な者だけである。社会は、それぞれの個人が、与えられた役割を可能なかぎり演じることを期待するし、期待せざるをえない。たとえば、牧師である者は、客観的に、自らの職務上の働きを遂行するだけではなく、さらにいかなるときにも、いかなる状況下でも、牧師の役割を、ためらうことなく演じてくれなくては困るのである。社会は、このことを一種の保証として求めている。あるひとは靴屋、またあるひとは詩人というように、誰しも自分の職につかなければならない。とはいえ、誰しも、個性をもつからには、この期待を満たすことばかり考えてはいられない。そこで人工的な人格を築くことが、どうしても必要になる。さらに礼儀や良俗の要求も有益な仮面をつける付随的な動機になる。そのとき、仮面の背後に生じるのは、いうところの「私生活」にほかならない。こうして、しばしば滑稽なほど隔たりのある二つの姿に意識が分裂する例は、あきあきするほど見られるが、こういう極端な心理的操作が無意識に何らかの影響を与えずにすむはずがない
c-1-a ペルソナの膨張の防衛法
ペルソナの膨張は、それまでペルソナの犠牲になっていたアニマ(アニムス)が反乱を起こしたものといえる。ときにはアニマ(アニムス)を解放することが大切である。また、シャドウ(影)もインフォーマルな場などの表現する場を与えることが大切であるといえる
言語連想法
ユングの言語連想法は、被験者に100個の刺激語(最初は「頭」)を一つずつ順番に提示し、それを聞いて思いついた最初の単語を一つだけ、できるだけ早く答えさせるという方法である。反応語・反応時間をストップウォッチをもって記録し、全部連想が終わった後で、もう一度同じ刺激後で反応の再生を行わせた。一見ごく簡単なテストに見えるが、頭が空白になってなかなか言葉が出てこなかったり、思わぬ言葉が口をついて出てしまったりと、本人にとっては意外な結果になることが多いようだ。こうした現象は、連想を困難にさせる何らかの情緒的な要因が背後で働いているからであり、それがコンプレックスだとユングは考えた。そして、コンプレックスの指標となる反応の乱れとして、(1)反応の遅れ、(2)反応語を思いつかない、(3)刺激語の繰り返し、(4)刺激語の誤解、(5)同じ反応の反復出現、(6)明らかに奇妙な反応、(7)再生テストのときの忘却や間違い、などをあげている。そのほかの解釈例では、反応の補足、追加が多いのも何らかのコンプレックスの現われ、時間のかかる語(成人の反応時間の平均は1.8秒という)が多すぎるのは一般的に適応困難を示していると考えられている。反応特徴の見方では、刺激語の説明や定義をあげるタイプは自分が知的だと思われたい人、とくに大げさな感情表現で答えるタイプは、内面の感情的欠乏の補償をしている人、などがある
アニマとアニムス
意識に思考の体系があるように――意識の場合それを論理的とか生理的とかいう――、無意識にも思考の体系がある。それを「元型」という。元型の一種類としてアニマとアニムスがある
アニマは気分を作り出すのに対して、アニムスは意見を作り出す。こうした意見はおそらく主として、幼児期から無意識的に拾い集められてきた言葉や意見が積み重なって、平均的な真理や正しさや分別の規準になったものであって、意識的でしっかりした判断ができないとき(よくあることだ)、常にすぐさま意見を供給してくれるさまざまな想定のいっぱいつまった宝庫である。これらの意見は、いわゆる常識の形で現われるかと思えばまた、偏狭な先入見、あるいはまた教訓めかした原理といった形で現われたりする。「こういうときはこうするものだ」とか、「誰だって、それはこうだと言うにきまっている」とかいうのがそれである。しかしこのような意見が男性を苛立たせることもある。女性が、男性の感傷的な側面にふれてこず、そのため彼女には、心動かす頼りなさや愚かさの代わりに論争しか期待できないとなると、彼女のアニムス意見は、男性をいらだたせるばかりである。その理由は主として根拠が薄弱だということであり、意見のための意見が多すぎるということであり、ただ意見をもっているというための意見にすぎないからである。ここでたいてい男性は癇癪を起こす。アニムスはつねにアニマを誘い出す(もちろん逆の場合もあるが)からであって、これは動かしがたい事実である。こうなるとそれ以上の議論は不毛になるしかない
無意識
意識の力、たとえば知的な理解や論理的思考や道徳的倫理観などをもって一生懸命諫めようとしても、懲りなく何度も上がってくる感情、これが無意識である。その感情はたいてい、意識に対して否定的な感情である。それと同時にこうした否定的な感情はすべて、彼が検討もせずに受け入れている自己暗示でもある。彼は、確かにそれを知的に隈なく理解できるし、それらが当たっていないことも見抜けるのだが、それにもかかわらず、そうした感情は、なくなろうとはしない。それらは知性では攻略することができない。知的基盤や合理的基盤に基づいているものではなく、いかなる意識の批判も近づきえない無意識の非合理的な空想世界に基づいているからだ。そのようなときには、無意識に空想を生みだす機会を与えなければならない
ユングの夢分析
ユングが示す症例を簡単に紹介しよう。クライエントは11歳。教養のある家庭に育った、知的な少女。少女はいまでいう不登校で母親につれられてユングのところにやってきた。三回目の面接で、少女は、5歳のときに見た忘れられない夢について語る
夢:私は兄と、森へイチゴを摘みに出かける。そのとき、狼がやってきて、私に襲いかかる。私は、階段を駆け登った。でも、なおも狼は追っかけてくる。私は、仰向けに階段から落ちる。すると、狼は私を足からむしゃむしゃと食べた。私は死ぬほど怖くて目が覚めた――
この夢から、連想されるのはご存知赤ずきんの童話。この少女も童話をよく知っていた。童話では、狼はまずおばあさんを平らげ、そしておばあさんに化けて、赤ずきんを食べてしまう。でも狩人が、狼を殺し、狼のお腹を開けてくれることで、赤ずきんは傷ひとつなく生き返った。この赤ずきんの童話が暗示しているのは、母なるもの(おばあさんに化けた狼で表わされている)は、子どもを食べてしまうほどの力があるということ。そしてその母(狼)の身体を引き裂く行為を通じて、どうにか子どもは新しく蘇ることができるのだ。ユングは、この少女を不登校にするほど内的に苦しめているのは、たとえ母親自身は意識していなくても、母なるものの強さであることをこの夢から確認した。そして、狩人が窮地を救ってくれたように、父親を巻き込んで治療にあたった
――
しかし夢分析というのはなかなか字義通りにはいかないものである。同じ夢をみたからといっても、その人の、夢に出てくるものに対するイメージを考慮しなければ的確な分析はできない。例えば、ある人が鳥になって空を飛ぶ夢を見たという夢分析には、ある人と夢見手の関係、鳥の種類と示された意味(ハトなら平和として友好的な鳥、タカならば強い鳥のイメージ)、夢見手にとってその鳥はどんな意味があるのか、などを同時に念頭に入れながら夢見手の語るところに耳を傾ける。あくまで夢見手の夢事物へのイメージが最重要なのであって、単に同じ夢をみたからといって、まったく同じ意味を暗示しているとは考えない。一方、ユングは夢見手の夢事物へのイメージが主観的になりすぎることに対する不明確性を説明している
タイプ論
ユングは人間の性格傾向を明らかにするために、「外向」と「内向」の二つの態度と、「思考」「直観」「感覚」「感情」の四つの心理的機能に分けられるとした。この態度と機能の組み合わせによって性格傾向の分類が試みられる。たとえば“態度”に思考機能が伴うと、「外向的思考型」「内向的思考型」というように。かようにして全部で八つの性格傾向のタイプに大別することができる
/a 外向性向と内向性向
外向とは外向的性格に傾いているさまのことで、いわゆる社交的な人のことを指す。一方、内向とは内向的性格の傾向を表わし、そのような人は自分の考え方やイメージや情動などをあまり他人と共有したがらない。人は外向と内向の両方の側面を必ず持っていて、そのどちらが表に現われ出てくるかは時と場合によって異なる。外向的な人の特徴は、社会や他人と浅く広く付き合えて、無難に世渡りができることにある。普遍的価値観なので、価値がどうこうよりも、その場所に行けばおのずとその場所の人に好かれる。/一方内向的な人は独自の価値を持ち、なおかつそれを外部と共有しようとしない。その理由には、共有しようとしても理解されないことも原因の一つだ。内向が持つ外向にはない最大の特徴は、価値の深みを目指せる学習をすることができることである。外部からもたらされる多様な価値を遮断するのではなく学習の糧として用いれば、自己の価値に多様で豊かな思想が展開される。しかし外部の価値に耳を傾けなければ、自己本位の偏った価値を妄信することにもなる。いずれにしても、価値の振り幅が大きい分、天才になるも愚者になるも両方の可能性を秘めている素材である
/b 心理的機能
人には主に「思考」「直観」「感覚」「感情」の四つの心理的機能が備わっている。それぞれの違いとはどのようなものだろうか。赤いリンゴを目にしたとき、思考型の人は「リンゴはなぜ赤いのだろうか」「どうしてこんなところにリンゴがあるのだろう」などとリンゴに対する理性的な思索を展開する。直観型の人は「このリンゴを売ったら金になるかな」「このリンゴを使って何かしてやろう」などとリンゴの可能性を受け取り、それを発想につなげる。感覚型の人は「この美しい丸みは芸術だ!」「情熱的な赤をしている!」などとリンゴに対するその直接を受け取り感想をもつ。感情型の人は「私はリンゴが嫌いだからここに置いてあるのは実に不愉快だ」「美味しそうなリンゴだ」などとリンゴを好き嫌いや善悪などで判断しようとする。このうち特に思考型と感情型はリンゴに対して――それが理性的か感情的かにかかわらず――何らかの判断をする様が見られるため、それらを合理的機能と呼び、直観型と感覚型は論理的判断を下すまえにまずリンゴを受け取る様が見られるのでこれを非合理的機能と呼ぶ。非合理的機能というのは合理的ではないという意味ではなく、あくまで合理的な属性を必要としないという意味である。これらはそれぞれ互いに「思考型 対 感情型」「直観型 対 感覚型」というようにペアを作る。このペア同士は得意・不得意または成熟・未成熟などの関係を持つ
b-1 思考型
思考型とは、その固有の法則にしたがって、与えられた表象の内容に概念的なつながりをもたらす心理機能のこと。リンゴを目にしたときに、自分の中にある法則や体系などにしたがってリンゴを思考するわけである。そのうち、思考されたリンゴは何らかの意味を与えられ、判断される
b-1-a 外向的思考型
主に外的な事実に依存して思考するのが外向的思考型である。社会一般に広く受け入れられているような法則や常識に則って思考をする。ということは、醸成された意見は結果的に社会適応性が高くて一般的な思考形態の枠組みのものになる。いわゆる道徳や倫理に基づいた判断も得意の内だ。しかし人には誰しも感情や人と異なる意見も持つものなのだから、そういったものを思考に組み込まないように抑圧する特徴も見られる。したがって個性に欠ける意見を持ち合わせることが多い
b-1-b 内向的思考型
主に内的な私意に依存してそれを元に思考するのが内向的思考型である。私意とは、自分の考えや自分の持つ信念などのことで、それらに従うことは結果自分偏りの意見になることを意味する。外向的な思考が客観的・常識的なのに対し、内向的思考は主観的・独創的であり、またそれは偏狭的でもある。それに内向的思考に偏りすぎるとしだいに外向的な思考への後戻りがしにくくなっていくだろうし、それから自分だけが優れていて他の異見は受けつけなくなって自惚れの感情が逓増していくようになる。このタイプの人は、みんなが分かるよりも、自分が分かることのほうを優先している。そうなるとたとえ他人に自分の考え方を披露したとしても理解されないことが多いため、しだいに人から遠ざかって、ますます孤独を愛し自らの内なる世界の中に没頭するようになる。まずい事態になるのは、彼らが自分の考え方に重きを置くあまり、他人の意見を軽く見てよく考えようとしなくなることだと思う。もし可能ならば、そうした彼らが他人の考え方と自分の考え方を照査し、他人の考え方の参考になる所は積極的に取り入れて、自分の考えをより良いものに止揚することが理想なのではないだろうか
b-2 感情型
感情型とは、与えられた内容について、これを受け入れるか斥けるか、一定の価値を付与する機能。思考のように知的判断を伴わず、思考プロセスを介さない個人的好悪や個人的善悪などの感情的判断をつかう
b-2-a 外向的感情型
物事を感情的判断に従って下し、それを外部と共有するのを好む。従って感情自体も普遍的になりやすい。~が好き、~が嫌いといった感情は積極的に他人とコミュニケーションをする。そのために相手とその感情が違ったときは、衝突することになるか、相手の価値を下げることで自己の安定を図る。自分の感情もはっきり持ちつつ、相手と違っても違うことを受け入れる寛容さを持つのが理想だと思う
b-2-b 内向的感情型
この型の人は内なる感情を常に持つ。しかしそれらを外部に共有しようとしないため、しばしば自分本位な独自の感情を暗黙の内に育ててしまう。思考もそうだが特に感情などは多様な価値観を持つものだが、自分と同じ感情を持たない相手とは一線を引いてしまうかもしれない。広く多様な感情を取り入れることができれば、それを融合して、より彩り豊かな自己感情を展開することができる
b-3 感覚型
感覚とは、生理的刺激を知覚に仲介する機能のこと。外部から五感を通して自己に伝えられる刺激に重点を置き、依拠する。それは外向的感覚型でも内向的感覚型でも同じだ。外向的感覚型の人は友達と有名な観光地へ旅行に行く。対して内向的感覚型の人は一人で観光地に旅に行くが、観光地ではない所も巡る。あるいは外向的感覚型の人はピラミッドを見て友達とその感動を分かち合う。対して彼はピラミッドをしばらく眺めると、詩を綴ったり、時にはスケッチブックを手にする
b-3-a 外向的感覚型
外的な事実から得られる刺激を重点に置く。美食、スポーツ、自然、審美的鑑賞を好む。遊びを楽しむことや社会で積極的に人と交流することで人生の瞬間瞬間で得られる刺激を楽しもうとする。そして誰かとその刺激を共有する手段があると、すぐにそれを利用する。その反面、議論や知的判断など思考を使うことは苦手
b-3-b 内向的感覚型
外的な事実から得られる刺激によって呼び起こされる自分の内部感覚に依拠する。他人の中の内部感覚など周囲の人からは見えないので、時には傍から見てなぜそんなに熱中するのかといった独特な感性を持ち合わせる。彼らは自分のその独自の感性は共有するものではないと思っているので共有しようとしないが、表現することはできる。いや、彼らの多くが自分の内的感性を、記憶の意味でも自己表現の意味でも、表現しようとする。それが周囲に理解されるか理解されないかに関わらず、表現しようとする。彼らは芸術を好む。彼らは自然を好む。そして何より瞬間的に沸き上がってくる内的感性を大切にする。独自の内的感性を、独自の手段で、表現しようとするのだ。表面的な意味で、外向的感覚型の人は見えるものを好むが、彼らは見えないものを好む
b-4 直観型
b-4-a 直観についてと、直観のプロセスと習慣化のプロセスの体系の違い
感覚が目の前にあるそれをそのまま受け取ろうとするのに対し、直観は“それ”から何ができるかの可能性を予測する。つまり未来、先を見通すわけである。彼らは新しいものに敏感で、未来のことに頭が向けられている。直観だけでは思考を伴わないので、受け取った可能性の卵を実際に可能性として具現化するためには、思考や感情などの合理的機能が必要である
直観とは完全に思考判断されるものではなく、自分の中にすでにあった観念体系を概ねストカスティック(語源であるギリシャ語のstochazeinは「的をみがけて弓を射る」の意。そこから、出来事をある程度ランダムにばらまいて、そのなかのいくつかが期待される結果を生むように図るという意に転じられる)に選び出し、その対象と結びつける。考えるに、習慣によっていちいち思考プロセスを介さなくても感覚的にある事を成し遂げることができる類の思考体系と、この直観による観念体系の対象への結びつきのプロセスの体系とは、少し違うように思われる。習慣化される行為は、思考が省かれても感覚的もしくはある程度意識せずとも、その行為を遂行することができるからであり、そこには、その行為が繰り返されるというプロセスが見られる。つまり行為が繰り返されることによって習慣化されていくのだ。しかし直観による行為はすでに繰り返されたものではない。ほぼ初めて、直観する対象と交わるのだ。ではなぜストカスティックに選びぬかれる観念が直観の対象に対して、概ね妥当で、上手いぐあいに、結ばれるのだろうか。対象として、人を見たときとコクマルガラスを見たときとで選びぬかれる直観的インスピレーションはそれぞれ違って当然だが、それでもやはり対象にある程度即したものが与えられる。それではストカスティックにおいてばらまかれた観念体系がある意義をもって選びぬかれる、その“ある意義”とは何に従うものなのだろうか。どのようにして直観のパーツが意識下に上ってくるのだろうか。そこを考えてみると、つまるところ、その対象にある程度即すものであるようにと命令を下す思考プロセスの機関があると疑うべきではないだろうか。そうなると、直観とは完全に思考判断に委ねられるものではないにしろ、前述の一部分は少なくとも思考プロセスの機関に頼っていることになる。これはインスピレーションがなぜ生まれるのかの説明に片足程度は及ぶところであると思う
b-4-b 外向的直観型
対象から受け取った可能性の卵を、他の外部環境に対してどのように応用できるかを直観的に導き出す。すなわちそれはインスピレーションと呼ばれるものだ。この外向的直観型にしなやかな思考が加われば論理的思考を得意とするだろう。この法則がどの分野に応用できるか。発明、数学、イノベーション分野など、柔軟な発想を必要とされる分野で活躍できそうだ。また直観だけでは実際の可能性として醸成するための思考を伴わないので、受け取った可能性の卵を実際になにができるか、どのように使えるか、可能性として具現化するためには、思考や感情などの合理的機能が必要である
b-4-c 内向的直観型
この型の人の特徴を一言で言えば、内的イメージが豊富にあることでしょう。外向型では可能性すなわち応用する先を外の世界に対して行う。したがってそこには常に現実の事情が考えられている。しかし内向的直観型の人は内的イメージをぽんぽんと作り出すことに精を出すので、しばしば現実のことなど無視してしまうのだ。現実の事情よりも、特に目には見えないものをイメージとして作り出すことを大切に思う。外向的直観型の人は社会に人にたいへんよく受け入れられ、同時に必要とされ、尊敬されることもあるが、内向的直観型の人はそれとはまったく反対に、その豊富なイメージすなわち想像力(創造力)を自分の内側に、観念的なものに使うことにベクトルを注ぐ。彼らにしなやかな思考が加わると成るのが、いわゆる哲学者である。その豊富なイメージを、思考を使ってさまざまなものに応用・適用し、普遍的で絶対的な真理かまたは法則を生み出そうとする。彼らが思考を巡らすものは、それが物理的なものであれ観念的なものであれ、思考体系そのものはひどく非現実的だ。エントロピーのことも、サクラメント(聖跡)のことも、それら基本の概念について思考することは、水泳選手がオリンピックで金メダルを取ろうとすることと同じなのだ。両者が違っているのは、ただそれが現実的か観念的かの実状の違いだけだ。観念的とはどのような意味か。それはたとえば、この両者に共通することが何なのか考える、そういった観念的なもののことである。文法構造(シンタクス)とは何なのか? 数とは? 量とは? パターンとは? つながり(リレーション)とは? 名前とは? 集合(クラス)とは? 関連(レラヴァンス)とは? エネルギーとは? 情報重複(リダンダンシー)とは? 力とは? 確率とは? 部分とは? 全体とは? 情報とは? 同義反復(トートロジー)とは? 相同(ホモロジー)とは? 物理学でいうマス[質量]とは? カトリックでいうマス[ミサ]とは? 記述とは? 説明とは? 次元の規則とは? 論理階型(ロジカル・タイプ)とは? 隠喩(メタファー)とは? 位相(トポロジー)とは? 蝶とは? ヒトデとは? 美しいとは? 醜いとは?
これらの基本概念の説明の、彼らの表現手段は、専ら本か講演に限られる。彼らは内向的なので、その成果が日の目を見ないことがほとんどかもしれない。誰にも知られないまま、それが評価もされぬまま、永遠の土に埋もれてしまったかもしれない。しかしそれでも私たちは、彼らから学ばなくてはならないことがある。そして、私たちが何を学んだかは、往々にして一番最後に分かるものだと私は思う
超越機能
《参考:コンポーゼ…二つ以上のものがまざってできたもの。ミックス》
超越機能とは本来、対立物の合一から生じる、それまでに個々にはなかった、新しい機能のこと。
「超越機能」といっても、別に神秘的なもの、たとえば超感覚的なものとか、形而上学的なものを指しているのではない。心理における「超越機能」とはすなわち、意識内容と無意識内容との連合から生ずる
意識と無意識を結びつけることができれば、前述の超越した機能を持つことが可能であるとユングは主張する。さらに超越機能を活用する方法について、ユングは次のように述べている
「意識と無意識の合一をめざすには、まず、無意識が発するささいな反応、たとえば情動・空想などがたとえ少しなりともほのかに意識されたときに、その反応に積極的に関与することである」
<ユング>
たとえば無意識の空想が起きた場合、その空想をやめさせる、つまり抑圧してしまうのではなくて、その空想の膨張を自然のままにほうっておいておく。空想の生起に積極的に関与することによって、本来無意識的な空想をたえず意識化しつづけるならば、その結果、第一に、無数の無意識内容が意識化されることによって意識が拡張され、第二に、無意識の支配的影響が次第に取り除かれ、第三に、人格の変化が生じる
――
ユングは、無意識の中には、“超越機能”があるといっています。自分を超えて、全体を見ることができる、もうひとつの目というようなものです。たとえば、私が道を歩いているとき、向こうの角からは誰が歩いてくるかは見ることはできません。しかし、もし私が上空から見る目があったとしたら、私が歩いている姿を見ることもできるし、向こうの角から誰が歩いてくるのかも見ることができます。すると、このまま私が歩いていけば、その角のところで、その人と私が出会うということはあらかじめわかります。この上空から見ることができるような目が無意識の“超越機能”です。この目によって、現実の自分の在り方を超越して、自分を含めた全体を見ることができます。無意識には、このように超越機能があるので、自分のおかれた状況もはっきり見えるし、これからどのようなことが起こるかという、先も見えるのです。もちろん先が見えるといっても、自分の一生のすべてが得られるわけではありません。ふだん私たちは、自分の進む一歩先もわからずに無邪気に歩いています。しかし、上からの目は、現在の延長が少し先にどのようなことをもたらすか、見取っているのです。ですから、無意識のメッセージである夢の方が、私たちがふだん意識の世界で考えるよりも、自分の現在も未来も見えるといえるのです。
ユングの言葉
ユングは、人間は個性化されるべきだといった。「人間は個性化されるのが望ましい。自分のありようや行為について、『これが私だ。私がこうするのだ』と言えるなら、たとえそれが難路であっても、安んじてその道を行けばよく、たとえその道に逆らったとしても、責任を取ることができる。自分自身より耐えがたいものはないという事実は、もとより認めなければならない」<ユング>
「空想は、生活の代用品ではなく、生活に貢物を支払った者に与えられる精神の果実である」<ユング>
「無意識は『願望する』ことができるだけではなく、自分自身の願望を取り消すこともできるのである」<ユング>
「心というものは、決して統一体ではなく、多くの矛盾にみちた複合体、コンプレックスである。しかしわれわれは、自分の中にある思想を、自分自身と同一視することになれていて、つい自分自身でそれを生み出したように考えてしまう。そして、奇妙なことに、自分では考えられもしないような思想が浮かんできたときに限って、これに最も重い責任を感じたりするのである。どんなに野蛮で気まぐれな空想も」<ユング>
「情動が語っているかぎり、理性的批判はさし控えねばならない」<ユング>
「知的な公式など、経験が欠けていたら虚ろな言葉の綾に終わるだけだ。残念ながら、まず言葉を丸暗記し、それに経験を頭の中でつけ加え、それから、それぞれの気質に従って、自分を放棄して頭からそれを信じたり、あるいは批判したりする者があまりにも多い。ここにあるのは、新たな問題提起であり、新たな(しかもまた古くからある)心理学的な経験領域である」<ユング>