小学校の修学旅行でのことだった。
我々は一路目的地をめざしてバスに乗り込んでいた。
席も隣同士だった、少しテンションの高すぎる彼に閉口しながらも、バスの旅は快調に進んで行った・・・。
しかし、バスに乗って1時間が過ぎた頃には、安川君はさっきまでのテンションがウソだったかのように静かになり、何か神妙な顔つきになっていた。
「車酔いか?」私は聞いてみた。
「うん、ちょっと酔ったみたい。」
「先生に言おうか?」
「いや大丈夫、言わんといて」
「そうか、また気分悪くなったら言いや。」
「うん。」
まぁ彼が大丈夫だと言うのだから、それ以上のしようはない。
私も彼の車酔いにつきあって、せっかくの楽しい修学旅行をだいなしにするつもりは毛頭なく、彼を放って友人らとの会話を楽しんでいた。
「先生!和田さんが気分悪いって」
突然後方の女子らの席からゲロ警告が先生に報告された。
警告されたところで、先生にできるのは「大丈夫?」とのお決まりのセリフと、ゲロ袋を装着したゲロバケツを渡すことぐらいだ。
特技が『貰いゲロ』の私としては、非常に忌々しき事態である。
隣の安川君も加わって『連鎖ゲロ』という非常事態に突入する危険性もはらんでいた。
しかし、和田さんは車酔いに耐えてよく頑張った! 私は感動した!
かくして非常事態は去ったかに思えた・・・・。
バスは予定通り快調に進み、ハイウェイへと突入した。
ハイウェイはカーブも信号も無いので、酔いが悪化することもないだろう。
私は安堵し、また友人らとのバカ話に花を咲かせていた・・・
その時――
私の隣の安川爆弾がポツリと火花をあげた。
「・・・うんこしたい。」
・・・車酔いではなかったのだ。
彼は一心不乱に、今にも括約筋の束縛を振り切って生まれ落ちんとする『うんこ』との熱いバトルを孤独に繰り広げていたのである。
しかしそんなことを告白されても私にはどうしようもなかった。
むろん、バスにはトイレは無かったし、ハイウェイに乗ったばかりで次のトイレ休憩はまだまだ先だったからだ。
「やばい?先生に言おうか?」
「いや、言わんといて。」
蚊の消え入るような声で彼はよわよわしく訴えた。
そうなのだ。
小学生にとって『うんこ』という行為は、イスラム教徒が豚を食うに等しいタブーなのだ。
しかし、彼の様子を見ていると、そんな事を言っている場合ではなさそうなのがわかった。
このままでは『ウンコマン』が『おもらしマン』にクラスアップしていくだけだ!
そう考えた私は彼の抑止を振りきり、先生に、「安川君がうんこしたいって言ってます。」と伝えた。
わざわざ先生に接近して小声で伝えたのは、私なりの彼の名誉への気遣いであった。
しかし、先生はそんな私の気遣いに気付かず、「安川、ガマンできそう?もう出ちゃいそう?」と、バス中に響き渡る大声で彼に問いかけた。
安川君の恨みがましい視線が私に突き刺さる。
一瞬で車内には静寂が訪れ、皆の注意は『うんこがもれそうな安川君』に集まった。
先生が彼の隣の席へと移動したので、隣だった私は先生の席へと移動が出来た。
「爆心地は避けれた!やった!」
不謹慎だが私のその時の素直な心境はそうだ。
もはや私に出来ることは祈るだけだったが、「安川君がうんこをガマンできますように」なんて祈ったら神様に怒られそうだったのでやめた。
おとなしく事の成り行きを見守ることにした。
先生は「ガマンできそう?」とまだ問うていた。安川君は半泣き状態で、答えようとしない。
私は考えていた。もし「もうガマンできません」と彼が答えたら、先生はどうするのだろうか。
幼い私の出したベストの答えは、『バスを停車して道の端にうんこする』というものだった。
それ以外に考えつかなかったという事もあるが、おそらく一休さんでもそう答えるであろうベストの回答を、もしその時が来れば先生も選択するだろうと思っていた・・・。
Time is come――そして時は来たれり。
先生の「ガマンできる?」の問いに、ついに彼が首を横に振った。
『WARNING WARNING 爆発秒読み開始 乗組員はすみやかに退避せよ』
緊急コールが脳内に鳴り響く。
しかし我々には逃げ場は無かった。
モーゼにすがる民草のように、我々は先生の決断を待った。
モーゼの口から決断の言葉が吐かれる。
「安川君は一番前の席へ、前の席の人達は後ろの座席へ下がって!」
意外なモーゼの言葉に私は呆然とした。
席を移動して何の解決になるのだろうかと。
しかしその疑問は、モーゼの手にしたそれによって一瞬で掻き消えた。
モーゼの手にあったもの・・・それは、
『バケツ』
そう、『ゲロバケツ』として搭載されていたあのバケツである。
さすがにモーゼがそのバケツを何に使用せんとしているかは理解できた。
モーゼは海を割る代わりに、『ゲロバケツ』を『うんこバケツ』へと変身させようとしているのだと。
モーゼの導きにより、民族大移動は終了した。
しかしそれで終わりではない。いや、地獄はこれからなのだ。
皆が顔を見合わせる。何を喋ればいいのかわからない。
来たるべき地獄の時を、皆が、最大級の静寂という最悪の状況で迎えようとしていた。
「ピブッ」
静寂の車内についにサタンが産声を上げた。
悪魔の母は嗚咽をあげていた。
「ブピッ! ブパパパパパパ!!
ブシャッ!! ビッ! ピピブブツ!!
プシャシャシャシャシャシャーーーーー ビッ!!」
サタンがあらん限りの雄たけびをあげた。
雄たけびと共に、車内に地獄の臭気が蔓延する。
この極限の状況に耐えられず、滝川君が笑い声を上げた。
するとそれにつられてガマンしていた者達も一斉に大笑いを始めた。
「ブプビチチッ ワーープッーーーハハブピッピツハッブリブリブリハッハッ!!
ワハハハブリブリッハハッハッハビチチプチッハハハーーーーハハハプゥッ」
サタンの雄たけびと臭気と子羊達の笑い声で、車内は更なる地獄へと変わった。
その瘴気に当てられたのは、車に酔っていた和田さんだった。
頼みの綱のゲロバケツは既にバス前方で安川君の菊門錬金術によりうんこバケツへとクラスチェンジしていた。
耐えきれなくなった和田さんの口から溶解液が勢いよく放たれた。
前門の狼、後門の虎とはよく言うが、
『前門のビチグソ、後門のゲロ』とは古代中国の文人も考えもしなかったであろう。
車内はクソの悪臭とゲロの悪臭が入り混じり、ビチグソの放たれる爆音と気の触れんばかりの爆笑がうずまき、泣き出す女や、貰いゲロをする奴らも現れた。
「フゲロオエップ゛プビチチッ ワーウッッープッーーーハハブピッピツハッブリブリブリハッハッ!!
ワハハハゲェェッハハゲロゲロハブリリリハハハ ゲロ
ブリブリワハハハゲロゲオエッエッ ビプッ ゲロオペッハハハハエーン
ワハハハブリブリッハシクシクハッハッハビチチッハブピゲロッロロハハーーーーハハハプゥッ」
脱糞、嘔吐、嗚咽、爆笑、激臭を乗せた地獄のバスは、
速度を緩めることなく目的地へと向かった。